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教会につながり実を結ぶ

2024年4月7日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「教会につながり実を結ぶ」 ヨハネによる福音書15章1~10節

 今朝は皆さんがよくご存じの、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその

枝である」と主イエスが話された個所から教えられたいと思う。

 主イエスはご自分のことを「ぶどうの木」に、私たちを「その枝」に例え

て、主イエスと私たちとの切っても切れない関係について語っておられる。

「ぶどうの木」は複数の大人が手を広げても届かないほどの大木ではなく、

根元の一番太い部分でも20㎝ほどの太さだから、「細い木」の代表と言え

るかもしれない。それなら「ぶどうの木」から生え出る「枝」はどうかと言

えば、見るからに細く、弱々しく、頼りないもの。ぶどうの実がたわわに実

っている映像や写真を見た人も多いと思うが、ぶどうの木に繋がる枝は実を

結ぶとき、実が重すぎて自ら持ち耐えられず、ぶどう棚でその実をやっと支

えてもらっている。

さて、主イエスは、なぜぶどうの木とその枝を引き合いに出されたのだろ

うか。旧約の時代、ユダヤでは犠牲の供え物を祭壇に焼くための「焚き木」を神殿に持参せよとの律法があった。その中に「ぶどうの木」とその「枝」だけは持参するなとの但し書きがあったそうだ。ほかの木々をイメージすれば、種々用途があり、「焚き木」にするなどもったいないと考えられるが、ぶどうの木や枝は焚き木の役にも立たないというのである。これは「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)ことのみ言葉の意味を際立たせている。

 ここで、主イエスは、あなたがたは「ぶどうの木」である私に「つながる」

ことによって、「豊かな実」を結ぶことができる、すなわち、あなたがたは

弱く、ちっぽけな存在だけれど、しっかりと主イエスに繋がって歩む時、主

イエスから溢れる力と恵みをいただいて、豊かな実を実らせることができる

と語っておられるのではないか。

 ところで、主イエスとつながるとはいったいどういうことだろうか。具体的に何に繋がることなのだろうか。イエス・キリストは教会の頭であり(エフェソ523)、教会はキリストの体である(エフェソ123)。だからイエス・キリストに繋がるとは教会とつながることと言ってよいだろう。この教会は建物のことではなく、そこでなされる礼拝であり、福音宣教の業全てを指す。礼拝では祈りがあり、賛美があり、み言葉が語られ、証しがなされ、感謝と献身の応答である献金が捧げられます。

 さて、主イエスは5節で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」に続けて、「人がわたしにつながっており、わたしもその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と約束されている。では「豊かに実を結ぶ」という「実」とは何を指しているのだろうか。それはその後の主イエスのみ言葉を読むと、10節に「あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛に留まっていることになる」と言われているし、さらに、11節では「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」とあるから、「豊かな実」とは、「愛」「喜び」であることが分かる。ガラテヤ書の52223節には、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和……」(ガラテヤ52223)とある。

 

 教会につながり、豊かな実を結ぶ人生を歩んでいこう。