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主の祝福と平和

2024年3月24日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「主の祝福と平和」 創世記26章12-33節

 イサクは飢饉が起こったので豊かなエジプトへ行こうとした。しかし、神に止められ、ゲラルの地に住むことになる(26:1-6)。イサクはゲラルの地に留まることに恐れと不安を抱いたことだろう。しかし、イサクはそこで神からの祝福を受けた。そして、たくさんの財産を得た(12-14節)。しかし、そのことはゲラルに住むペリシテ人からねたまれる原因となったのだ。ペリシテ人は昔アブラハムが掘った井戸さえもふさいでいた〈2615〉。イサクはペリシテ人たちにとって脅威となったのだ。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった」と言われて、土地を追われてしまう。生活の拠点である土地から追放され、さらに命に直結する水を得る井戸までふさがれてもイサクは争わなかった。

 イサクはゲラルの谷に移り住んだ。そこでもペリシテの人々と井戸のトラブルが次々と起こったが、イサクは争いが生じると次々と移動した。井戸を掘りあてるということは簡単なことではないが、イサクは、せっかく掘り当てたものを自分たちのものだと誇示して争ったりはしなかった。私たちは、命に関わる水の問題をそう簡単に手放すことはできない。昔から水をめぐって争いが起こることはどこの国でも地域でもあった。さて、イサクももめごとがいやだからという理由だけで、何度も何度も掘り当てた井戸を手放していくことはできなかったはず。しかし、イサクはアブラハムのように神と交渉したり、策を弄したりはしなかった。誰からも奪い取ったり、固執したりせず、むしろ手放していったのだ。命をつなぐ「水」を争いをもたらす人々とも分かち合っていった。そこに「ねたみ」とは、正反対のところにいるイサクを見ることができる。そのイサクを「平和の人」と呼ぶことができるのではないか。イサクは、去って、去って、去って、ベエル・シェバに至る。「逃げるが勝ち」が、イサクの戦術なのだろうか。彼の姿からは、かっこよさ、力強さは伝わってこない。しかし、その彼が、平和をもたらす者になっているのは確かだろう(31節)。

 なぜ、イサクはそのようなことができたのだろうか。それは、イサクが神から、「あなたと共にいて祝福する」との声を聞いたからである(26:3,24)。聞いて、その神の言葉を受け入れ信じたからである。神の祝福に信頼して歩んだからである。「争い」を引き起こさずとも、祝福を神が与えてくださることを信じたので、希望を失うことなく進んでいくことができたのである。主への信頼こそ、憂いや恐れ、争いから人を解き放つ源泉であることが分かる。

 私は小さくとも、そこにある主の祝福が、自他共に認められるならば、それで良し。負けているようで、実はそうではないイサクの信仰をそこに見ることができる。イサクは平和、シャロームに生きた人だった。イサクはシャロームを与えることのできた人だった。それは神の祝福を分かち合う信仰とでもいえるだろう。

 

 イサクは争わず平和な人であったから「祝福」を受けたのだろうか。そうではない。まず祝福が神からイサクへ与えられたのである。祝福が先。まず答えは神にあり、神から来る。恵みの先行である。私たちはただ感謝してその祝福を受けとり、神に信頼して歩むだけなのだ。その結果、平和な人になるのである。争わず、神の祝福を分かち合えるものとされていくのである。恐れず、大胆に主の前に出て祝福を感謝していただこう。