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皆に仕える者となる

2024年2月18日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「皆に仕える者となる」 マルコによる福音書10章35-45節

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、主イエスに、やがて力あるメシアとして王座に着く時は、一人を王に次ぐ第二位の地位の右に、もう一人を第三位の地位の左につけてくださいと願った。それに対して、主イエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか」と言われた。「杯」は旧約聖書において苦しみの運命を表す。たとえば、詩篇116に次のように書かれている。「逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる」。また、「洗礼(バプテスマ)」も、本来「(水の中に)沈める」を意味し、苦難の運命を表す。ルカ12:50に、主イエスは、「わたしには受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と言われている。しかし、弟子たちは、主イエスの栄光が苦難を通し、また苦難の中でのみ現われることを理解できなかった。

 だから、彼らが「できます」と答えると、主イエスは続けて「確かにあなたがたはわたしのために苦難を味わうことになるだろう。しかし、だからといって、そのことが功績として認められて私の右と左に座れるということではないのだ」と言われた。このやりとりを聞いていた他の10人の弟子たちは、「あの二人は自分たちだけ抜け駆けしようとしてけしからん。自分だって、イエスさまの弟子として負けず劣らずがんばってきたんだ。右と左に座る資格は自分にだって十分あるはずだ」と内心思って、憤慨した。弟子たちは、完全にこの世の価値観に立って議論をしている。すべてが人との力関係の比較によって優劣がつけられる世界では、人よりも上、人よりも先に行かなければ負けということになってしまう。だから、人は他の人を蹴落としてでも優位に立とうとする。そして、強い者が力をふるうのだ。弟子たちは皆、負けたくないのだ。

 そして、このような価値観は知らないうちに私たちキリスト者の中にも忍び込んでくる可能性がある。教会内での奉仕や献金を熱心にするからといって、神の前で大きくされるわけではない。奉仕や献金はあくまでも、神の愛に対する感謝と献身の応答である。それなのに、もし私たちが自分の業を誇るとしたら、もはや感謝と献身の応答ではなくなり、神との愛の関係が壊れてしまうだろう。

 主イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「この世では、力のある者が権力を持って人々を支配しているが、神の国では価値が逆転する。すなわち、仕えられることが偉いのではなく、仕える生き方こそが尊いのだ」と言われるのである。主イエスの共同体、神の国でのあり方が、支配するとか支配されるという関係ではなく、またみんな同じで仲良しの関係だよ、と言っているわけでもなく、それをさらに超えたものとして提示されている。それは主体的な応答を促すもので、「仕える者」「奴隷」の立場に徹して、意志的に「仕えきる」ことが求められているのである。

 

 人の上に立って、人を支配したいという誘惑に勝つために忘れてならないのが、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」という45節の言葉である。主イエスは仕えることの極みとして、十字架で文字通り命を捧げて下さった。十字架の意味はそこにある。だから、自分が主イエスの十字架によって仕えていただいたということを本当に知った者が、高慢や打算から自由にされ、喜びと感謝と献身の思いをもって、他の人に仕えることができるのではないだろうか。仕える者となろう。