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喜ばしい交換

2024年2月11日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「喜ばしい交換」 マタイによる福音書21章1-11節

主イエスは大勢の群衆の注目を浴びながら都エルサレムに入られようとしている。そのような時は誰であっても、この<晴れがましい>場面での服装をどうするかを考えると思う。しかし、主イエスは、晴れ着を用意されない。ただゼカリヤ書9章9節に預言されている通りに、ご自身で準備されたロバに乗っておられた。これは柔和を示すしるしと考えられる。柔和とは、ただニコニコしてやさしいだけではない。柔和とは他者を生かす力である。ルターは「そこには罪はまったくなく、義の装いがある」と言った。他者を生かす神の義である。戦いに勝利した王が凱旋するときは軍馬に乗る。馬は戦いのしるし。一方、ロバは柔和。ロバに乗っている主イエスはそれにふさわしい柔和な方であることを示している。他者を生かす方であることを示している。

主イエスのエルサレム入城は、戦いに勝利して帰ってきた時のパレードではない。まるで反対の十字架の死に向かってのエルサレム入城である。しかし、大勢の群衆が期待するメシアは、日常を襲う生活の苦しさ、病や災いを幸福と健康に変えてくださるお方であった。そのようなメシアは力を持ち、人々を圧倒するような姿を持っていてよいはず。でもここには、メシアは意気揚々と凱旋するかのような王として入城されない。それにふさわしい馬に乗っていないし、服装もしていない。

主イエスは、受難と死によって人の罪に勝利される王であることをとぼとぼと歩くロバに乗るという行為に表わされた。人々が常識で期待する勝利の王の姿とはまったく対極に位置するものであった。主は低く低くいますお方であることによって、人間の最も根っこにある罪に勝利する王であることを示された。もし私たちが、背中に負う罪の重荷にあえぐロバのようであるなら、そのロバに乗っておられるのは実はその重荷に勝利されるキリストご自身に他ならないのであって、恵みの重荷であることを思うべきである。

 すでに主イエスご自身も「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)と言われている。私たちは、うっかりすると救い主のところへ行けば、辛いことや悲しいことはすっかりなくなってしまうと単純に受け止めがちである。しかし、救い主イエスは、信仰さえあれば、幸福と健康を手にすることができると単純に考えておいでにならない。救い主イエスは言われる。あなたの軛は、実は私の軛なのだと言われる。背中のくびきが主イエスのくびきと成り変っているので、背負い得る者となっている。そこになおもって生きる勇気の源泉を発見するのである。ルターは、キリストを信じるとき、「喜ばしい交換が起こる」と言った。キリストのものが私のものとなり、私のものをキリストが引き受けてくださる、そこにこそ信仰による慰めがあるというのである。その結果、私たちは疲労こんぱいの最中にあろうと、重荷で押しつぶされそうになっていようと、なおしたたかに生きている自分の姿を見るのである。

 

喜ばしい交換が起こるので、自分の背中に負っている罪の重荷にあえぐロバである私たちの罪の重荷はキリストに変わっている。恵みの重荷となっている。だから、私たちがどんな時にあっても、喜べない時にも、感謝できない時にも、そのことを喜び、感謝できる希望の人生を生きることができる。これが十字架のあがないである。十字架の救いである。そのことに気づき、主イエスを心の中に受け入れよう。主に信頼し、主にゆだねて歩もう。