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教会は宿屋

2024年2月4日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「教会は宿屋」 ルカによる福音書10章25-37節

 愛はキリスト教信仰の「DNA」だと言った人がいた。DNAとは生物の遺伝情報を担う物質で、日本語ではデオキシリボ核酸というそうだ。言うならば物質の核心とでも言ったらいいだろうか。だから愛はキリスト教信仰の核心。まさに神の核心は愛であり、神は愛である。私たちはその神の愛によって一つに集められている。だから、このように毎週、日曜日に会堂に集まって一つとなり、神を賛美し祈り礼拝するのは、キリスト教信仰の必然だとも言えるのではないだろうか。

 私たちは集められ共に礼拝する中で、神の愛を体験し、共通のアイデンティティ、神に罪赦された罪人、クリスチャンだということを再確認していく。その神に罪赦された罪人であるという自覚は、たとえばヨハネ3章16節のみ言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言葉によってもたらされる。そして、神からの愛をどのようにして互いに分かち合うかによって、神に愛されている者としての証しを世にしていくのだ。ヨハネ13章35節に「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とある通りである。

 今日の聖書個所で、イエスは、申命記6章5節の「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と、レビ記19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という、ユダヤ教の伝統的な教えを再確認している。すると律法学者は「わたしの隣人とはだれですか」とイエスに質問をする。聖書のいう愛の義務はどこまで及ぶべきかという問題である。隣人とはどこまでの範囲の人たちを言うのか、ということだ。当時のユダヤ社会では同胞であるイスラエル人と、居住する異邦人まで及ぶと伝統的に考えられていた。律法学者がイエスに投げかけた問いに対して、主イエスは律法学者が期待する範囲をはるかに超えた愛をたとえ話で説明していく。それがよきサマリア人のたとえ話。

 さて、このたとえ話だが、多くの初期キリスト教の教父たちは、このたとえ話の中に、世を救うための神の計画の軌跡(道筋)を見ていた。教父たちは、エルサレムから下っていく人を、楽園から、すべての危険と挫折を抱えたこの世に下ってくるアダム、すなわち全人類のイメージとして見ている。そして追いはぎを、私たちを襲う敵対的な地上の権力のイメージとして見たのである。彼らはキリストご自身を、憐みで心動かされ、半死半生の人を助けに来て、その傷の手当てをし、安全な宿屋に連れて来た人として見ている。それは教会のイメージであると考えた。帰りがけにというサマリア人の約束は、主の再臨の約束を予表するものだと教父たちは理解したのである。

 このたとえ話から、キリスト者は、宗教的、民族的、社会的アイデンティティに関係なく、困っている人に憐みと思いやりを示し、良いサマリア人のように愛の行動をとるよう求められている。私たちが他者を助けるよう促されるのは、伝道のためではなく、このたとえ話に出てくるサマリア人の「隣人」愛からである。キリスト者がこのサマリア人のような隣人となれるのは、違いを乗り越えた相互の愛を学ぶことによってのみなのである。

 教父たちは、よいサマリア人のたとえ話に出てくる宿屋を教会のイメージとしてしばしば解釈してきた。サマリア人が傷ついた人を宿屋に連れてきたように、キリストは世界の傷ついた人、困窮している人を私たちの教会に委ねられる。ゆだねられた教会に集う私たちは、傷の手当てをし、健康な状態に回復するよう助ける。世界に奉仕するこの使命は、神の民への神の賜物であり、一致への道でもある。

 

 私の好きな言葉に「思考は地球規模で、実践は足元から」というのがある。教会は「世界に奉仕するこの使命」をゆだねられているが、実践は足元、この逗子を中心とした地域である。そのためには地域に開かれ、地域に仕え、地域と協働する教会となっていく必要がある。できることからやっていきたい。今日の週報のコラムに書いた。「できる人ができることをできるだけする」。できる人、始めよう。