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祝福の確かな根拠

2024年1月28日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「祝福の確かな根拠」 マルコによる福音書10章13-16節

 祝福は美しい言葉であり、美しい行為だ。入学・就職・結婚・出産といった慶事に接するとき、「おめでとう、お幸せに」という祝福の言葉が私たちの口からごく自然に出てくる。そして私たち自身も祝福の言葉を慈雨のように注がれて、誕生から今日までを歩んできた。

 今日の聖書個所もそうだが、祝福はとりわけキリスト教に縁の深いものでもある。試しに手許の国語辞典で「祝福」という言葉を引いてみてください。そこには「幸福を喜び祝うこと」という一般的な意味と並んで、「キリスト教で神の恵みが与えられること、神から与えられる恵み」といった解説が必ず載っている。祝福がキリスト教の本質に関わるものであることが、辞書の中にちゃんと記されているのだ。

 先週の説教でもお話したが、まさしく聖書は最初の1ページから祝福を語る。言葉によってすべてのものを無から創り出された神様は、御自分の作品を一つ一つ確かめて「よし」とされた。この無条件の肯定の中に、原初の祝福が現れているだろう。世界がよいものとして創造されたことは、私たちに与えられている祝福の第一の根拠である。

 しかし、ことはそう簡単ではない。祝福とともに始まった人間の歴史の綻びは、ほかならぬ祝福をめぐる不条理を通じて明らかになっていく。まず創世記4章に出てくるアベルとカインの兄弟の話。アベルの捧げものは祝福されたのにカインのそれは祝福されず、兄弟殺しの悲劇を生んだ。聖書の中での人類最初の殺人事件だと言われている。次に出てくるのは、長子に与えられる祝福を争ってヤコブはエサウを騙した話。さらに、ヨセフ物語では、父親から可愛がられたヨセフは兄たちの憎しみをかった。諸民族間でも争いが絶えない。敵対する諸民族の間では、一方の祝福は常に他方の呪いであり、終わりのない報復合戦が続く。それは現在のウクライナやガザにまで延々とつながってきている。

 それは戦場に限らず私たちの日常の中にも、祝福をめぐる不公平や不条理は至るところに満ちている。今日の聖書個所でもそれが現れている。13節に「イエスの触れていただくために……」とあるが、それは主イエスから祝福をしていただこうと子どもたちを連れてきたのに、弟子たちに拒まれた、というのだ。このような差別と偏見に満ちた不公平や不条理は本当にわたしたちの日常生活の中でいくつも見られる。こうした現実を前にして、原初の祝福は私たちの目に遠く霞んでしまいます。この世のどこに祝福があるのか、祝福はどこへ行ったのかと私たちは問う。そしてこのような懐疑と不信は、私たちが旧約の世界に留まっている限り払拭することができない。

 疑いを吹き払い祝福の真の意味を教えてくれるのは、言うまでもなく新約聖書に書かれている福音のメッセージである。その福音の中心のメッセージが十字架の贖いであり復活の主の臨在である。成功や繫栄や長寿は祝福のたかだか半分でしかない。それらがすっかり失われた逆境のさ中にも主イエスがおられ、どこまでも私たちと共に居続けてくださること、インマヌエル(主、共にいます)の約束こそ祝福の第二の根拠であり、より強力な真の根拠なのである。

 さて、祝福の確かな根拠は分かったのだが、そのことを素直に受け入れることができるのかという問題がある。今日の聖書個所で主イエスは幼子(乳飲み子)を引き合いに出して話される。乳飲み子という言葉からしても、幼子は飲み込む、素直に受け入れるという特色がある。その受け入れるという点にこそ、幼子を主イエスが引き合いに出されたゆえんがある。

 私たちの信仰生活を考えると、入ることができたら受け入れていこうという態度があるように思う。分かりやすく言うと、お金がもうかったら、病気が治ったら信じようという態度である。神の国に入ったら、神の国はよかったから受け入れていこうという態度である。それに対して、主イエスは受け入れることによって入ることができるのだと言われた。

 

 主イエスはヨハネ福音書6:35で「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」と言われた。私たちは飢えることがなかったら、この人は命のパンだと思うが、イエスを信じなければ、イエスが命のパンであることが私たちにはわからないと言われた。イエスが特別に強調されているのは、幼子のように「神の国を受け入れる」、信仰を受け入れ、信じることが先であり、その後に神の国に入ることができるのであるという点である。信じる者は救われる、である。