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暗闇は光を理解しなかった

2023年12月24日 逗子第一教会 クリスマス・イブ礼拝宣教

 「暗闇は光を理解しなかった」 ヨハネによる福音書1章1-5節

 今から126年前の18979月にアメリカのニューヨークの新聞『ザ・サン』にあてられた8歳の少女の手紙がある。それは次のような内容の手紙であった。「おじさん わたしは8才です。お友だちの中に、サンタ・クロースなんかいないっていう子がいるのです。パパはこう言いました。「『ザ・サン』にそう書いてあればそうだろう」どうか本当のことを教えてください。サンタさんはいるのですか。ヴァージニア・オーハンローンより。」

 さて、この8歳の少女の素朴で純粋な質問の手紙を受け取った「ザ・サン」の新聞社はどう対応しただろうか。なんと返事は新聞の社説に掲載されたのだ。執筆したのは論説委員のフランシス・チャーチ。彼は「この世には、愛や思いやりといった、目には見えないけれども確かに存在するものがある。それと同じように、サンタクロースだって確かに存在する」という内容の社説を書いて答えたのである。“Yes,Virginia,There is a Santa Claus (そうです、ヴァージニア、サンタクロースはいるのです)”という一節のあるこの社説は大きな反響を呼び、以後、『ザ・サン』は毎年クリスマスが近づくとこの社説を掲載したという。

 書き出しの一部を紹介しよう。「ヴァージニア、あなたの友だちはまちがっています。その子たちは疑い深い時代の疑いに影響されているのです。その子たちは見えるものしか信じないのです。その小さな心で分からないことは存在しないと思うのです。ヴァージニア、大人の心も、子どもの心もちっぽけなものです。この大きな宇宙の中にあって、人間はほんの虫けらか、アリンコのようなものです。まわりの果てしない世界に比べれば、その知恵においても、また真理や知識の全体をつかみとる知性においてもそうなのです」。

 確かに私たちもバァージニアのお友だちのように「見えるものしか信じない」者ではないか。そのことを聖書は繰り返し証言している。今日の聖書の箇所の最後のところに「暗闇は光を理解しなかった」と書かれているが、「暗闇」とは「この世」のことであり「暗闇」に住む我々人間のことでもある。「光」とは「神」であり、ここでは「神の独り子イエス」のことである。暗闇に住む人間は、光である「神の独り子であるイエス」を理解しなかったというのである。

 また、旧約聖書の詩編の115編の2節には「彼らの神はどこにいる」とある。これは、ユダヤの人々に向かって、周りの国々の人々が言った侮蔑の言葉である。「唯一の神だとか、天地を造った神だとか言うが、お前たちの国はいつも脅かされているではないか、生活も苦しいではないか、神があるのなら守られるはずではないか。」「お前たちの神はどこにいるのか」。これは敵だけではなく、私たち自身の中にもある思いではないか。

 主イエスが十字架につけられた時、群衆は主イエスに向かって「もし神の子なら十字架から降りてこい」と言っている。これは嘲りの言葉ではあるが、ある意味では人間の本質的な叫びではないか。「黙って殺されていったのではなんにもならないじゃないか。どこにも神の業は見られないじゃないか。それではいくら神の子だと言っても信じられないじゃないか」という思いから出ている、痛切な叫びでもあったと言えるのではないか。これが私たち人間の本質、本音であり、真実が見えない、理解し得ない限界のある存在だということを示唆している。

 先に紹介した「ザ・サン」の論説委員のチャーチも言うように「大人の心も、子どもの心もちっぽけなものです。この大きな宇宙の中にあって、人間はほんの虫けらか、アリンコのようなものです。まわりの果てしない世界に比べれば、その知恵においても、また真理や知識の全体をつかみとる知性においてもそうなのです。」と書いてるとおりだ。そういう存在なのだ。

 

 今日の聖書個所に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とある。命、光、それは主イエスのことである、命は見えない。見えないが確かにある。誰も否定はしないだろう。「この世には、愛や思いやりといった、目には見えないけれども確かに存在するものがある」とチャーチは書いている。これも誰も否定しないだろう。あとは、そのことを信じるか信じないかだ。信じる者は救われる。単純だが、真実である。主イエスは言われた。「見ないのに信じる人は、幸いである」。