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イエスの言葉にとどまる

2023年12月10日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

 「イエスの言葉にとどまる」ヨハネによる福音書8章31-38節

 今朝の聖書箇所は、イエスの弟子とはどのような人であるかを明らかに示す。それはイエスの言葉を聞いて、その言葉のうちにとどまる人のこと。主はイエスを信じたというユダヤ人に対して、イエスを信じるとは、彼の言葉を聞くだけではなく、その言葉のうちにとどまる必要があると指摘している。そうすれば、その人たちは、イエスの弟子である、というのである(31)

 私たちは、人が語ることを聞いている。しかし、自分に関心がない言葉であれば、聞き流してしまう。あるいは、聞いていたとしても、自分なりの解釈を加えて、相手の語ることをまともに受け止めようとはしないこともある。そのような場合には、相手との間に生きた関係を築きあげることはできない。

この場面でもそのことがあらわにされている。イエスが「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(32)とユダヤ人たちに言われると、彼らは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」と反論する。彼らは「あなたたちを自由にする」と言われて、反発する。自由になれるということは今は奴隷状態だということだから、彼らは「だれかの奴隷になったことはない」と怒りを込めて反発する。イエスは「真理はあなたたちを自由にする」と言ってるだけで、その人の先祖や過去を問題にしているわけではない。真理とはイエスの言葉であり、イエス自身のことである。ユダヤ人たちはどこまでも現実の世界の中でしか、イエスの言葉を理解しないのだ。そのすれ違いがここによく表れている。言葉を聞くことがいかに難しいかを思い知らされる。ましてイエスの言葉を聞くということは私たちの経験や知識では難しい。聖霊の助けが必要である。

さて、イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われる(146)。イエスの語る言葉は、私たちの中に命を与える。しかも、一時的なものではなく永遠の命である。そのような命の言葉を聞き流すわけにはいかない。私たちはしっかりと、イエスの言葉を聞き、その言葉の中にとどまっていたいと思う。しかし、イエスの言葉にとどまるとは、どのようなことなのか。イエスは「神からきた者は神の言葉に聞き従う」(47)と言っている。だから、イエスの言葉にとどまるとは、イエスの語られたことを聞き、さらにその言葉に従うこととなる。

 イエスの言葉が、その言葉を聞く人の中に命をもたらすのは、その人がイエスの語られる言葉を受け止め、文字通り、その言葉に従う時である。イエスは、私たちに、永遠の命に至る言葉を語りかけている。この言葉に聞き従うことによって、私たちの中に、喜びの命がわきあふれてくる。そのためには、私たちのもっている先入観で、先ほど言った経験や知識でイエスの言葉に耳をふさがないことが大切である。次に大切なことは、イエスの語る言葉は、自分の中に確かな命をもたらしてくれるものであると信頼すること。そして、第三にイエスの言われる通りに実行してみること。この三つの段階を経ていくことが、イエスの言葉を聞くというであり、また、その言葉に従うということなのである。

 イエスの言葉に聞き従う人は、イエスの示す真理によって、自由を得ることが約束されている(32)。しかし、イエスの言葉を聞くだけで、その言葉に従わなかったユダヤ人たちは、イエスの与える真理と自由が何であるかわからなかった。彼らは自分たちがアブラハムの子孫であり、奴隷になったことはないと言って自由を政治的な意味、この世的な事柄に限定していた(33節)。しかしイエスの言う自由は、政治的な意味で奴隷になっている状態から解放するということに限定されてはいない。イエスの言われる自由は精神的な意味での解放(罪からの解放)を意味している。

 

 イエスは、イエスに聞き従わないことを罪の奴隷であるとも表現している(34)。罪の奴隷であるとは、イエスの言葉に聞き従うことによって、大きな喜びと、人を愛する心が生み出されることを知らないことなのだ。私たちは、聖霊の助けをいただいて、イエスの語る言葉に信頼し、さらに、イエスの勧めを実行していきたいと思う。そのことによって、神の働きを担っていくことが、どのように深い喜びをもたらすものであるかを経験できるからである。この喜びを経験していこう。