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おお、私の神、私のすべてよ!

2023年12月3日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「おお、私の神、私のすべてよ!」 詩編50編15節

今日の聖書個所は詩篇の5015節のみ。神を求める、神を呼ぶ、神に祈る、それらはいったいどういうことか。集中して考えてみたい。新共同訳では「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはおまえを救おう。」と訳されている。文語訳では「なやみの日にわれをよべ われなんじを援けん」。共に「神を呼ぶ」と訳されている。神を呼ぶとはどういうことだろうか。 

アッシジのフランチェスコは、13世紀初頭の頃、イタリアで活動した、カトリックの修道士である。その彼の最初の弟子となったベルナルドは、最初はただフランチェスコの祈りの秘密を知りたかっただけで、彼と知り合い、そこで一計を案じて客として招き、並べて床を取ったそうだ。そして眠ったふりをしてフランチェスコの祈りを待ったのだ。フランチェスコの祈りは「私の神よ、おお、私の神よ!」と呼ぶだけのものであり、涙と共に呼び続けて夜明けに及んだというのである。こうしてベルナルドはその最初の同伴者、弟子となったのだ。ともに神の名を呼ぶ者となったのである。このフランチェスコの祈りは、「おお、私の神、私のすべてよ!」という言葉としても伝えられ、中世の祈りの一つの手本ともなったと言われている。私たちにもできるが、むしろ私たちの問題は、あまりにも手軽に神の名を呼ぶことであるかもしれない。

次にお話するのは加藤常昭牧師のエピソードの一つ。加藤先生の本に書かれていた。私は(加藤先生のこと)求道とは神を求めること、神を求めるとは神を呼ぶことであると言って、信仰を求める人々にまず祈りを求めました。ある日、それに応えて遂に「神さま!」と呼べるようになったと涙ながらに報告してくれた女性がいたそうだ。それを聴きながら、私は恥じた、とある。特別な思いもなく、もっと複雑な言葉で神の名を呼んでいる牧師であることを恥じたと、加藤先生は言われるのだ。何か私たちにも身に覚えがないだろうか。祈りは言葉づかいではなく、真摯に神を求める、呼ぶことが大事であることを改めて教えられる。

そのことを教えてくれる聖書個所がいくつもある。その一つ、カナンの女の信仰という箇所がある。マタイ152128。これなどまさに、「なやみの日にわれをよべ われなんじを援けん」の具体的な例であろう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

さて、八木重吉というクリスチャン詩人の詩で、「神を呼ぼう」という詩がある。「赤ん坊はなぜにあんなに泣くんだろう /あん、あん、あん、あん/あん、あん、あん、あん/うるせいな/うるさかないよ/呼んでいるんだよ/神さまを呼んでいるんだよ/みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」。

確かに赤ん坊は泣き叫ぶ以外、何の手段ももっていない。しかし、赤ん坊は生まれながら神さまを知っているかのように、叫び続ける。それは私たちが手段も方法もない時、何をなすべきかを教えているかのようだ。赤ん坊は全身をもって泣き叫ぶ。言葉も知らない、歩いて取ることもできない、物を使うすべもしらない、まさに何もできない、その時、神が唯一与えた手段は、神に呼び求めることだったのだ。赤ん坊は、その目的のものが与えられるまで、決して泣きやまないのだ。神への信頼、あるいは要求の激しさだろうか。全身をふるわせて泣き叫ぶ。それは私たちの祈りに対する指針ですらあるようだ。そのことを八木重吉は赤ん坊の泣き声から聞き取ったのだろう。そしてこの「神を呼ぼう」という詩が生まれたのだと思う。

 

私たちの祈りは、ぼそぼそとしていないだろうか、それは叫びだろうか。神を呼ぶと言えるものだろうか。「なやみの日にわれをよべ われなんじを援けん」。神の約束である。この神の愛に全き信頼を置いて、神を求め、神を叫び、神に祈ろう。