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感謝ってな~に?

2023年11月26日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「感謝ってな~に?」テサロニケの信徒への手紙一5章16-18節

今朝の説教題にずばり「感謝ってな~に?」という題をつけた。教会では何かにつけ「感謝、感謝」って言う。なぜ感謝をいつも口にするのだろうか。聖書から、感謝について考えてみよう。

私たちが感謝するのは、有り難きことが有り得たからだろう。「有難い」。それだけではない。神が求めていることでもあるからだ。「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とある〈518〉。でも、「どんなことにも」と言われると、ちょっと厳しいなとか、無理ではないかと正直思う。感謝できることだけに感謝し、感謝できない時は不平不満をぶつけたり、つぶやいたりするのではないだろうか。そこなんですね。感謝できない時こそ、神あっての私、主の犠牲あって私は今日あるを得ていることを思わされ、「にも拘らずの感謝」へと導かれていくのだ。感謝の根本には「神の恵みによって今日の私がある」(第一コリント510節)との信仰があるからである。それと感謝するには素直さと率直さが必要。自己の無なることを潔く認め、この無なる者を有としてくださる神を思う心である。

先ほど、感謝の底に神の犠牲、主の執り成しを思うことが肝要だと言ったが、詩篇の5014節、23節に「感謝のいけにえを神にささげよ」とある。感謝はいけにえでもあるのだ。感謝することによって人間は人間になるのである。人間だけが感謝できるからだ。どんなことにも感謝していきたい。

「感謝」に関する素敵な文章がある。「幸せなことがあれば感謝するのは当然ですが、もしそれだけのことなら、感謝とは、自分にとって幸せか否かだけで人生を選別する、まことに身勝手な感情に過ぎないことになります。しかし感謝とは、そんな自分本位の小さな感情ではない筈です。それは、人生の大きな包容の中にある自分を発見することなのです。それは一つの自己発見であって、幸福に誘発された感情ではないのです。そして、幸・不幸を越えて包容する大きな肯定の中に自分を発見した人は、すべての事態を受けとめるでしょう。感謝する人は逃げない人です。」(藤木正三著『断層 神の風景-人間と世間』から)

 私たちが、今与えられているもの、またこれまで備えられてきたものすべてに感謝する心を持つことは、とても大切である。そんな感謝の心が、私たちに生きる力、困難を乗り越えていく力を与えてくれるのではないだろうか。

 次に感謝に関する二つの話をしたい。一つは収穫感謝の話。秋は実りと収穫の季節。私たちの教会では特別に収穫感謝礼拝というものを行っていないが、多くの教会では行っている。教会でのこの習慣は、直接的にはアメリカの教会から伝えられたもの。

 北アメリカに移住した最初のピューリタン(清教徒)たちは厳しい自然環境の中で、先住民の援助を受けながら移住地での最初の収穫の季節を迎えた。それまでに死んだ多くの仲間がいたと言われる。しかし彼らは、最初の収穫を得た時、それを捧げて神様に感謝した。季節は11月の下旬で、以来アメリカの教会ではこの時期に収穫感謝祭を祝うようになった。

 しかし、収穫感謝祭は、もっと広く多くの教会で、古くから祝われてきた。ヨーロッパやイギリスの教会では9月下旬に祝っていまる。さらに言えば、すでに旧約聖書の時代からイスラエルの民は収穫感謝祭を祝っていた。ペンテコステ(五旬節)の祝日は聖霊降臨日になる以前は小麦の収穫感謝の日だった。このように先ほども言ったが、人間は昔から感謝する心を持っているのである。

二つ目の話は「残り柿」という話。晩秋を迎え、教会の庭の柿の木も豊かな実りをもたらした。何の手入れもしないのに、たくさんの柿の実をいただいていると申し訳ない気持ちになる。誰に対して申し訳ないのだろうか、とふと考えたりもする。

 日本の各地で習慣として、柿を収穫する時に34個、時には10個、20個と柿の実を残すそうだ。それは、餌の少ない冬場に鳥たちの食物になるからである。それを「残り柿」というそうだ。このような心やさしい風習があることを知ったのは大学生の時だった。

 大学での授業で随筆の『残り柿』という文章を学んだ時だった。その随筆は、四国の寒村の晩秋の風景がつづられ、村の人々が自分たちのひもじさを我慢しながらも、鳥たちのために柿の実を残す風習がつづられていた。都会育ちの私には鳥のことなどに思いいたらない。実ったものは全部収穫するのが当然と考えていたので、そのような心貧しい、想像力の欠けた自分を恥ずかしく思ったことだった。

 聖書にも同じようなことが書かれている。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」(レビ記199-10、申命記24:19-22参照)

 いわゆる落ち穂拾いの規定である。収穫物の一部を寄留者、孤児、寡婦と分かち合うべきであるという。これら三者は農地を持てず、生活上不利であった。古代社会なりの一種の社会保障である。その動機は、出エジプトという救済史の出来事にある。さらに、この規定には、土地は神のものであり、土地所有者も土地を持たない貧しい者も共に神の恵みに与るべき、という思想がある。共に生きるという原点でもある。神の愛はすべての者に及ぶもであるということ。柿の実のみならず収穫物は収穫の主、神に感謝して共に分かち合って食べたいものである。