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正義を洪水のように

2023年10月29日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「正義を洪水のように」アモス書5章21-27節

 聖書を読んでいると、私たちの目の前にある社会が、どのような社会であるべきなのか、と考えさせられたり、そしてその社会を変えていく力について考える手がかりを得られることがある。今日はアモスという預言者が神から受け取った御言葉を通して、そのことを考えてみたいと思う。

 アモスは羊飼いとしてイスラエルのテコアという村で静かに生活を送っていた。しかし、神に選ばれた使命感の中で、彼は預言者として社会と大きく関わっていくことになる。アモスが生きたイスラエルの社会は、ヤロブアムという王が治める時代で、政治的に独立を謳歌し、経済的に大きく繫栄していた。しかしその一方で、権力は腐敗し、弱者は虐げられ、道徳は堕落し、宗教は退廃していた。そのような時代にあって、神はアモスに正義が貫かれていない社会に目を向けるようにと促す。その促しに呼応して、アモスは彼の生きていた社会を直視した。そして、社会の権力者とそこに生きる一般の人々に対して、神からのメッセージとして語り、書き残したのがアモス書である。アモスの預言の主題は神の義であり、主の裁き。しかし、彼もまた神にある希望をもってその預言を結んでいる(911節以下)。そのアモス書から、特に正義について教えられたいと思う。

 24節に「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」とある。正義(ミシュパート)という言葉は、法に基づいた公正さを表わしている。また恵みの業(ツェダカー)という言葉は、倫理的意味合いを強く帯びた正しさを表わしている。法的な公正さである正義と、倫理的な正しさである正義の両方が社会の中に貫かれていることが神の意志であるとアモスは語る。

 聖書の預言者は神の言葉を預かる人である。アモスは神の言葉を預かって、イスラエルの人たちに向けて語った。しかし、この言葉が文書の中に書き留められた以上、それは後に続くすべての時代の人たちに向けて語られる神の言葉となった。私たちも今、その神の言葉をアモスを通して聴いている。

 さて、ここに「正義が洪水のように流れる」とは語られてはいない。「正義を洪水のように流れさせよ」と言われているのである。だれが流れさせるのか。それはこの言葉を受け取った人たち一人ひとりである。この言葉は、受け取った人たちに行動を促す言葉になった。「流れさせよ」とアモスを通して私たちにも語り掛けられている。流れに乗るのではなく、流れに任せるのでもなく、私たちが流れさせるのである。流れさせる中の一滴となるのである。教会はそのようにしてこの世に遣わされているのであり、教会に繋がる私たち一人ひとりがその働きへと遣わされていくのである。

 マザー・テレサも言っている。「わたしたちのすることは/大海のたった一滴の水に/すぎないかもしれません。/でも/その一滴の水があつまって/大海となるのです。」(『マザー・テレサ 愛の言葉』女子パウロ会1998)。

 マーティン・ルーサー・キング牧師の生き方からも考えてみよう。彼は私たちと同じ米国南部バプテスト連盟の牧師である。その彼は首都ワシントンで行った演説の中でこのアモスの言葉を引用した。肌の色が違うというだけで自分たち黒人が抑圧され不当に差別される社会を彼は目の当たりにしていた。彼には夢があった。人が肌の色によって差別されることがないという正義をアメリカの社会の中に洪水のように流れさせる夢である。彼のすべての行動と演説はそのような夢に裏打ちされたものである。彼は何度も逮捕されながらも、暴力に訴えることはせず、忍耐強く語り続けた。そしてその積み重ねが大水のような大きな流れとなり、公民権運動と呼ばれる大きなうねりを作り出したのだった。

 

 このアモスの言葉は、今この時代に生きる私たちに向けても語られている。そうだとするならば、私たちが生きるこの時代、この社会の中に、正義と公正がないがしろにされてはいないか、ということについて問いかけてみたいと思う。いま日本は、どうなっているのだろうか。世界はどうなっているのか。アモスを通して神が訴え、キング牧師が目指した正義は、法律に基づいた公正と倫理的な正しさがすべての人に等しく及ぶことだった。その二人が夢見たように、現実を直視しながら、社会の不正が見逃されず、機会の平等がすべての人に保障され、言葉と文書が尊重される社会が実現するように夢を持ち続けていたいと思う。性別や民族、職業、貧富、障害のあるなしなどのゆえに差別、不平等に扱われることがない社会、人が人として生きていく権利が保障される社会が実現するという夢を持ち続けていたいと思う。教会はその働きのためにも立てられている。