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イエスの愛の眼差し

2023年10月8日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「イエスの愛の眼差し」ルカによる福音書15章1-7節

 「見失った羊」のたとえ話は、マタイ福音書181214節にも並行する譬えとして出てくる。しかし、このルカ福音書では「無くした銀貨」と「放蕩息子」と三部作になっていて、物語の主体は「失う側」にあって、三つの物語は共に見失ったものを必死に探し、見つけ出した時に大喜びする持ち主の態度に焦点を当てている。この焦点を通して、見失われた一人ひとりの人間を捜し求める神、そして探し出したら大喜びする神の姿を透かし見るように導かれる。それが「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(157)という結びの句が明瞭に表現しているだろう。

 一方で、この「見失われた羊」の譬えでは、100匹のうちの一匹を見失った羊飼いの身になったら、皆さんはどうしますか、そう問いかけていることに気づく。もし、99匹と一匹の間で、皆さんはどちらに配慮しなければならないかと問われると、誰もが「もちろん99匹の方」と答えるだろう。通常、良き羊飼いなら、さらに羊を見失ったりしないように、残りの99匹を守ろうとするだろう。しかし、このように問われると、「自分も一匹を探しに出るかもしれない」と思う人もいるだろう。その時に、ふと、人生にもそうした瞬間があるのではないか、と考えさせられる。私たちの日常の世界では「最大多数の最大幸福」の原則の上に成り立っており、民主主義でことが多数決で決定されるのもこの原則が暗黙のうちに是とされているからだ。だれもがこの正当性を当たり前のように受け止めて日常生活を送っている。

 しかし、私たち個人の人生においては、この原則がどのような時にも妥当するわけでないということを思い知らされることが起きる。ドイツで現在も活躍しているF・フォン・シーラッハという小説家、弁護士がいる。彼の書いた『テロ』という小説を紹介する。一つの極端な例になるかもしれないが次のような話である。一人の戦闘機パイロットがテロリストにハイジャックされた旅客機を撃墜して、164人の乗客を死なせた罪を問う法廷を描く裁判の話である。なぜこの戦闘機のパイロットは乗客が乗っている旅客機を撃墜したのか。それはこのハイジャックしたテロリストたちは旅客機を7万人の観客がいたサッカースタジアムに墜落させようとしていたからである。法廷で争われた問いは、7万人という多数を救うために、164人という少数者を犠牲にしたパイロットは有罪か、それとも無罪か、というもの。有罪判決であれ無罪判決であれ、それぞれに言い分があり説得力があるところに問題の難しさがあり、意見は分かれるだろう。

 もっと身近な例で言うならば、リストラの問題を挙げることもできる。会社を存続させて多数の雇用を守るために、少数の犠牲者を出す。私たちが多数の側にいる限りは当然と思える事態だが、その犠牲になる少数者が自分の家族、あるいは自分自身であったなら、それを当然のこととして平静に受け止められるだろうか。

 

 「見失った羊」の譬話を語ったイエスの眼差しはいつもこの犠牲にされる少数者にあった。私たちが犠牲になることのない、いや、むしろ恩恵を受ける多数の側にいる限り、当然のことのように見える人生の出来事や事柄が、不利をこうむり犠牲を強いられる少数者に連帯するとき、あってはならないこととして見えてくる。それは、どちらが正しいとか、どちらが間違っているとか言うことではなく、私たちはどのような生き方をしたいか、生き方の選択が問われる問題である。選び取りの問題である。この譬話を読むたびに、私はイエスのようにはなれないけれど、しかし、私の人生での様々な選択の機会に出会うたびごとにイエスの愛の眼差しを思い出すのである。できることは限られているが、できるだけ少数者、弱くされた者、小さくされた者の側に立って考え、共に歩みたいと思う。それはチャレンジでもある。