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合理を超えた生き方

2023年10月1日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「合理を超えた生き方」 ヨハネによる福音書20章1-18節

 最近の社会は合理性は言うまでもなく、効率化とかコスパ、コスト・パフォーマンス(費用対効果)がどうだとか大変うるさく言われるようになってきた。少々うんざりしている。確かに合理性や効率化、コスパも考えながら仕事や行動することも大事だろう。でも人間、そんなことばかり考えて仕事や生活をしているわけではない。人間には感情があり、自分の考えや意思もある。だから、それらによって行動や生活が左右されることはいくらでもある。

 さて、そんなことを考えていると、聖書に出てくる「マグダラのマリア」のことが思い浮かんでくる。「マグダラのマリア」と聞いて、印象深く思い出す人は意外と多いのではないだろうか。その身の上から言っても忘れ難い印象を残す人物である。そのマグダラのマリア。ルカの福音書によれば、イエスが十二弟子たちと伝道しておられた時、他の女たちと同行し、仕えていたと記されている(ルカ8)。その名前が出てくるとき、いつも最初に書かれているところから考えると、彼女はグループの中心人物であったのだろうと思う(ルカ813)

 マグダラのマリアについて最も際立った記録は、イエスから「七つの悪霊を追い出していただいた」(ルカ82)という話。七つの悪霊につかれた状態が、どのような疾患を指すのかよくわからないが、極めて悪質な病と考えてよいだろう。「七つ」はその内容がなんであるにせよ、心身とも深く傷ついた恐ろしい過去を物語るものである。

 おそらく彼女は、その傷のゆえに人々と真に交わることができず、自らの存在を隠し、孤独で自閉的な生活を送っていたのではないかと思われる。しかし、その彼女がイエスに出会って癒され、新しく生まれ変わったのである。その内実を鮮やかに伝えているのが今日の聖書個所、復活物語(ヨハネ20118)である。ここで注目したいのは、マリアのイエスに対する愛のあり方である。

 イエスが復活された朝早く、マリアは墓に向かった(201節)。他の福音書では複数の女性たちとあり、また香油と香料を持ってとあるが、ヨハネ福音書ではマグダラのマリアだけである。香油と香料はイエスの遺体に塗るためである。「朝早く、まだ暗いうちに」と書かれている。夜明けが待てなかったのである。しかし女一人で何ができるというのだろうか。当時、墓は岩をくりぬいて造られ、入り口は大きな車輪状の石を転がして封印されていたと言うので、このような大きな石を女手で動かすのは難しく、普通に考えるなら弟子たちに頼むだろう。物事を合理的に考える人はマリアのような行動をとらないと思う。

 しかし、ここに、それこそ「恐ろしい過去」から解放され、イエスの愛に深く捕らえられたマリアの姿がある。じっとしてはいられないのだ。彼女のイエスへの献身的な愛の業は合理を超えるものだった。これはあとの話の中にも表れている。マリアが墓に行ってみると墓石は転がされており、その知らせを聞いてペテロとヨハネが来て見ると、はたしてマリアが言ったとおり、イエスはすでに復活され遺骸はそこになかったのだ。留意したいのはこのあと。弟子たちは空の墓をその目で確認すると、皆帰ってしまった。そこにいてもどうしようもないわけだから。しかしマリアは、もう一度そのどうしようもない現実に戻ってきたのだ。墓に戻ってきたのである。イエスがそこにおられないことを知りながらである。聖書は、「マリアは墓の外に立って泣いていた」(ヨハネ2011)とだけ記している。

 二人の天使が現れ、マリアに「なぜ泣いているのか」と尋ねると「わたしの主が取り去られました」と答え、その後、復活されたイエスから「なぜ泣いているのか」と問われても、園丁、墓の管理人だと思い、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言っている。いったい女一人でどのように引き取り、どこに運ぼうというのだろうか。

 ここに彼女の涙、また合理を超えた行動の秘密がある。それは、いかに彼女はイエスの愛に感動していたかということである。べタニアでイエスの頭に高価な香油を注ぎかけた女の話がマルコ、マタイ、ヨハネの福音書に出てくるが、その女性はマグダラのマリアではないかという説もある。いずれにしても合理性やコスパを度外視した行動、イエスに対する熱い思いが伝わってくる。このようなマリアの行動は、愛よりも現実的な論理や合理的な判断で動きやすい私たちに対するチャレンジである。人は真に人を愛するとき、合理を超えて人のために働いたり、奉仕したりするようになっていくものである。そういう心が人間関係の質や世の中というものを変えていくのではないだろうか。