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感謝で始まり、感謝で終わる

2023年9月24日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「感謝で始まり、感謝で終わる」フィリピの信徒への手紙4章6-7節

 祈りについての聖書の言葉と言えばいろいろあるが、イエスが弟子たちに教えた「主の祈り」はすぐ思い浮かぶだろう。また、それに劣らず思い出すのが今日与えられた聖書個所ではないだろうか。

 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(ヒィリピ467)。

 何も思い煩うことはないではないか。あなたがたは、祈ることができるではないか。パウロは、思い煩いを振り切ってこそ、初めてなしうるかと思われる祈りを勧めている。そのような祈りは、事ごとに感謝をもって、祈りと願いとをささげればよいのだと言うのである。ここでも私たちの求めるところを何でも申し上げたらよいではないかと勧められている。ただし、よく読めばすぐ分かることだが、いかなることについても、感謝を伴う祈願をせよと言う。パウロは、あらゆる求めが、常に感謝を伴うものであるはずだと言っているのである。様々な求めというのは、それが満たされて初めて感謝することになるのではないか。常識ではそうなると思う。しかし、ここでは、求める祈りが先にあって、そのあとに感謝がくるというのではない。感謝が先立っている。感謝に始まるのである。何を祈り求めても、それに感謝を添えるのである。そして、もちろん感謝に終わるのである。感謝に始まり、感謝で終わる。そういう祈りこそ、私たちに深い、人の知恵では測ることのできないほどの平安が与えられ、祈る私たちの心を守るのである。この時、パウロが、「キリスト・イエスによって」とはっきり言っていることを忘れてはならないと思う。

 祈りについてのパウロの言葉と言えば、もう一つ、すぐに思い起こすものがある。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ人への第一の手紙51618)。

 パウロは、その手紙で語っているようなことをいつも教会で語り、教えていたと思う。いつも祈りについて教えていた。そして、この二つの手紙、かなり異なった状況で、異なった教会に宛てられた手紙の中で、祈りについてほとんど同じようなことを教えていることは、パウロが、何を大切にしていたかをよく示していると思う。ここでパウロは、絶えず祈りなさいと言う。祈りを絶やすなと訴える。そして、その祈りを勧める言葉を、サンドイッチのように挟んでいるのは、一つは、いつも喜んでいなさいという勧めであり、もう一つは、すべてのことについて感謝しなさいという勧めである。いつも、絶えず、すべてのことについて、喜び、祈り、感謝する。ここにパウロの信仰の理想が語られているともいえるだろう。いやむしろ、ここにパウロ自身の信仰の生活が反映しているのではないだろうか。パウロの言葉に即して言うならば、これこそ「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」なのである。ここでも、「キリスト・イエスにおいて」とはっきり語られているのを心に刻むべきだろう。

 しかし、私たちの生活には、感謝することができないほどにつらいことがあり、悲しいことがあり、困ったことがあるもの。苦しみが続いて、もう何日も感謝の祈りなどしたこともないということもあると思う。それならば、パウロは、そうした私たちとは違って、いつもよほど恵まれた生活をし、そのためにいつも感謝していたのだろうか。もちろん違う。パウロの手紙は、いつも苦難について語る。彼自身が強いられてきた労苦の数々を語る。そこで言う、いつも感謝しなさいと。私たちがもし、このような意味での感謝を知らないままに祈っているとすれば、そのために、結局は感謝するすべもなくうろついているとすれば、私たちはそこで、祈りにおいて最も大切なものを見失っていることになるのではないだろうか。いつでも祈れる、絶えず祈りに生きることができるための手懸りを失ってしまっているということになるのではないか。  

 

確かに私たちの人生には、様々なことが起こる。思わず感謝の叫びを呼び起こすようなことも起こる。しかしまた、私たちを不安にさせること、恐れさせること、苦しめること、悲しませることも起こる。それゆえ心の表面には絶えず波乱が起こる。私たちはそのたびに揺れ動く。しかし、そのような時にも、私たちの心の深いところには、存在の深いところにと言った方がよいかもしれないが、その深いところで揺るがない平安がある。それは、いつどんなところにおいても、主が共にいてくださるからである。「キリスト・イエスによって」「キリスト・イエスにおいて」とパウロが言っていることである。インマヌエルの主である。愛の主である。これこそ感謝すべき第一のこと。感謝することによって、私たちはこのことを繰り返し、神のみ前で承認する。繰り返し新しく、この信仰の事実に立ち返る。そこから祈りが始まる。そこからこそ、どんなことでも祈れる祈りが始まる。だからこそ、感謝がなければ祈りは始まらず、祈りは続かないのである。何事も感謝をもって祈ろう。主が共にいてくださる。