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静かな沈黙の愛

2023年9月17日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「静かな沈黙の愛」 ヨハネによる福音書8章1-11節

 聖書に限ったことではないが、物語というものを読む時、どのくらい登場人物の立場に身を置いて読めるかということが、とても大切なことだと思う。その感情や気持ちを拾うことが肝要である。今日のこの「姦淫の女」の物語は、特にそういう読み方が必要な話の一つ。

当時のユダヤの社会では、姦淫の罪を犯した者は石打ちの刑を受けねばならなかった。律法に定められている。だから、掟に従って罪を裁くことで、起こった事態に決着をつける、世間はこの論理を疑うことはなかった。

 しかし、イエスは人間の問題はそれだけでは決着がつかないことをこの場面で教えられた。目を転じて、では石を投げる者自身はどうなのかと問われるのだ。イエスは姦淫の女を問い詰める人々に、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われる。このイエスの言葉を聞いた者はどのような思いが起こされただろうか。私たちも同じ人間。言わなくても想像できる。一人去り、二人去って、女とイエスがその場に残される。この問いによって、人々は罪は石を投げることでは決着がつかないことを知らされる。イエスは女に言われる。「だれもあなたを罪に定めなかったのか」。「主よ、だれも」と女は答える。するとイエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と言われた。だれも石を投げる者がいないということは、人の掟では決着がついていないということだ。いや、正確には掟によっては決着がつけられないということである。

 それに代わって「わたしも……」と言われるお方が、女の前にお出でになる。そのお方はどのようにしてこの女の罪に決着をつけたのだろうか。救いへと導かれたのだろうか。

 もう一度、この物語を丁寧に見ていこう。この出来事は、イエスが早朝エルサレムの神殿で、集まってきた民衆に教え始められた時に起こった。律法学者たちやパリサイ派の人々が、姦淫の現場で捕らえた女をイエスの前に突き出し、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と問い詰めたのだ。律法違反で死罪だというのだ。

 と言っても、この質問は女の裁判を求めたのではなく、「イエスを試して、訴える口実を得るため」であって、「赦せ」と言えばユダヤ教の律法違反として訴え、逆に「殺せ」と言えば、お前の説く神の愛と矛盾するではないかと追い詰めることができる。また当時、ローマの支配下にあったユダヤ人は死刑執行権がなかったので、処刑を承認するなら反逆者として告発することもできるわけだ。要するに彼らは律法の適用をめぐって教えを請うたのではなく、イエスを捕らえるために女を利用しただけなのである。

 このような場に突き出された女の気持ちは、どんなものだっただろうか。簡単にその心の内を想像することはできないが、耐え難い苦痛であったと思う。断罪されるだけなら、恐ろしくはあっても当然の報いとして受け取ることもできるだろう。しかしそれを公衆の面前で利用されるとなると、つらさは倍増される。そしてこの恐怖と屈辱に加え、あられもない姿を男たちの目にさらされる恥辱には計り知れないものがあったに違いない。ここに人間の恐ろしさがある。何の憐みもかけず、さらし者にして利用しようとする。人間はそういう心にもなってしまうということなのである。

 さて、イエスに向かって「あなたはどうお考えになりますか」と問い続ける学者たちの前で、イエスは指で地面に何かを書いておられたのだが、やがて身を起こして、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と返された。「罪を犯したことのない者」と言われて、自信をもって「ない」とは言えず、年長者から始めて、一人また一人と立ち去った。彼らは隠れてしてきたこと、秘密にしてあることなどを思い起こしたのだろうか、良心が痛んで立ち去ったのである。

 ところで彼女は、皆が去った後のつかの間のシーンとした静寂に何を感じただろうか。これこそ、恐れと恥辱に震える彼女の立場に身を置いて考えてみなくてはわからないことだが、それを思いめぐらしていくと、その静かな沈黙の中にイエスの温かさが感じられてならない。私はこれを「沈黙の愛」と呼びたいと思う。彼女はこの愛に触れ再生に向かったのではないだろうか。P.トゥルニエという医学者がいる。彼はキリスト教信仰と医学の結びつきを明らかにし、〈人格医学〉(medicine de personne)を提唱し、医者と患者との人格的ふれあいを重視し、精神療法を主とする臨床に当たった医学者である。そのトゥルニエがある本に次のように書いている。人が「自分の過ちを認めるに至るとするならば」、それは「彼・彼女を裁いたことのないだれかとの、打ち解けた雰囲気の中で生じてくること」(『罪意識の構造』)と言っている。彼女は沈黙のうちに視線をそらしてくれたイエスとの温かな関係の中で、真の自分の姿を見ることができたのではないだろうか。

 

 人々が立ち去った後、イエスが彼女に「だれもあなたを罪に定めなかったのか」と言われると、彼女は「主よ、だれも」と答えた。これに対してイエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われた。ここにイエスの愛と配慮を感じるのである。恐れと恥辱の中に突き出され、やがて静かな沈黙の中で赦しの愛に触れた彼女は、どんなに平安を得たことだろうか。