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命の重さ

2023年9月10日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「命の重さ」 創世記4章1-16節

 兄カインは神に腹を立て、激しく怒り、顔を伏せる。理由は、弟アベルには目を留めたのに、なぜ自分には目を向けてくれないのか、というもの。神が、カインに声をかける。「なぜ怒るのか?」それは、神が決してカインを無視していたのではないことを示しており、カインが神と語り合う絶好のチャンスだった。しかし、カインはその声に応えなかった。なぜカインは素直に胸の内を明かさなかったのか。どうして怒りの気持ちをぶつけなかったのか。振り返ると、私たちもカインと同じように、腹の立つ相手に向かい合う勇気がなく、不可解なことを尋ねる勇気もない。そして顔をそむけて黙り込み、自分の内側に逃げ込んでしまう、そのような経験があるのではないか。

 そしてカインの激しい怒りは、より弱い立場の弟アベルに向けられた。弟さえいなければ、との恨みの思いが心に溢れてきたのだろう。自分のことしか見えなくなっていた兄は、弟を呼び出し殺した。その時のカインは、神に対する思いも隣人に対する愛情も消えうせていた。結果、自分を支配している激しい怒りに自分自身が見えなくなっていたのだ。

 兄のカインだけが残った。神は、カインに声をかける。カインはすぐさま「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と開き直ったような言い方で答える。彼は、最初の神の声には答えなかったが、二度目の声には即答している。とはいえ、どちらも、神に向かってまともに「応えていない」。最初の神の声には顔を伏せ、口を開かなかった。二度目の神の声には知らぬ振りをした。どちらも、まっすぐ神に向かって答えていない。声をかけられても、逃げ隠れ、ごまかそうとする点では同じである。カインは神から逃避している、逃げている。同時に、罪に飲み込まれる弱い自分自身を受け入れることができず、自己からも逃避している姿がそこに見え隠れする。 

弱い人間の姿が、ここにも描かれている。聖書は、アダムとエバの物語で表した人間の罪「自己中心、エゴイズム」をここでも表現している。「何ということをしたのか」。真実を見抜いている神の目は、まっすぐカインに向けられる。この神の言葉は、彼の父母アダムとエバに向けられたかつての言葉(313)と同じである。「何ということをしたのか」。 

神はさらに「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(410)と言われる。神のこの言葉は、殺されたアベルの姿を彷彿とさせる。カインは、ドキリとしたに違いない。神から暴露されたカインはパニックに陥ったことだろう。「今、お前は呪われる者となった」(411)。神の言葉はストレートである。「お前は地上をさまよい、さすらう者となる」(412)。三度目の神の言葉になって、カインは初めて答えた。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」(413)。カインは、初めて神に向かい合ったのだ。と同時に、自分自身が見えてきた。何ということをしてしまったのか、彼は自分の罪を自覚した。この時、自分自身がはっきりと見えたのである。神に向かい合うことは、同時に自分を見つめることであることがよくわかる。 

弟の命を奪ったカイン。彼自身は生き続けようとしたが、生きることの重さを、今さらのように気づかされたのだ。与えられた自分の命を生き抜くことは、それだけで、実に重いことである。他者の命を奪うことは、自分の命に加えて、他者の命の重さをも背負うことになる。奪った命をどこかで放り出すことはできない。どこまでものしかかってくる。それは背負いきれない重さとなる。命を与え、命を奪うのは、神の業である。人を生ける存在とし、また土に帰るものとするのは、神のご計画の中にあることである。人は神にはなれない。神の業を行なうことはできない。だから、人には「命」を奪うこと・捨てることが許されていない。他者の命のみならず自分自身の命をも、人間は手を付けてはならないのである。なのに、カインは神のように命を操ってしまった。その罪はあまりに重いものだった。 

けれども……、と創世記は伝える。神は、誰も彼を撃つことのないよう、生き抜くことができるようカインに印を付けられた、と伝える。神は、負いきれない重荷を担いつつも生きることを望まれ、徹底的に命を大切にされる、と伝えている。神は、殺人者カインを殺しはしない。むしろ誰もカインを撃つことがないようにと、カインに印を付けられる。この印は、カインが罪を犯したことを示すと同時に、共同体を追われ命の危険にさらされるカインを、「これは私のものだ、手を出すな」と神が保護していることを示すしるしでもある。神はカインの殺人に対して、殺さないことで応え、さらに印を与えてカインを殺させないようにし、報復の連鎖を断ち切られる。こうして神は、罪は罪として明らかにしつつ、なお憐みをもって生きる道を与えられる。

 

私たちは、時に感情に支配され、罪を犯す者でありながら、なお神の憐みのなかに生かされているカインの末裔だといえるのではないか。神が私たちにしてくださっているように、どんな状況に置かれても決して殺さず、相手を否定せず、対話し向き合っていきたい、と思わされる。祈りと感謝をもって歩んでいきたい。