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神の愛する友

2023年8月6日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

 「神の愛する友」 イザヤ書41章8―9節

 聖書には数え切れないほど多くの人々が登場する。しかし、多くの登場人物の中で、神から「わたしの愛する友」と呼ばれているのは「アブラハム」だけだろう。イエス・キリストも神から「わたしの愛する子」(マタイ317)と呼ばれているのが思い起こされる。

 友とは裏切らない、見捨てない関係であり、あらゆる時に、時がよくても悪くても向き合う存在である。アブラハムは、神は裏切らない、見捨てないと信じて、光の中にあっても闇の中にあっても、神と向き合い続けていたと言える(創世記1512)。人に言えない秘密の深い淵の底でも、神と向き合っていたはずだ。

 さて、世界の三つの宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教から「父」、あるいは「信仰の父」と呼ばれ、神からは「わたしの友」と呼ばれたアブラハムとは、いったいどのような人物だったのだろうか。彼は背が高かったのか低かったのかなど容姿は分からない。聖書はそんなことにまったく興味がないのか、何も書かれていない。アブラハムは日々何を考え、何を想い、何を楽しみに生きていたのか、これもよく分からない。捉えどころのない人物である。

 では、アブラハムは、何か文化的に創造的な働きをしたのだろうか。優れた歌や詩を作ったのだろうか。そのようなことは何もしていない。当時の技術革新や発明に貢献したのだろうか。いいえ、何もしていない。アブラハムは英雄だったのだろうか。アブラハムの時代にも英雄がおり、巨大な権力を保持している者がいた。彼らは自分がいかに偉大であるかを示すために自らの像、巨大な建造物、記念碑を建てた。しかし、アブラハムは建造物も記念碑も何も残していない。

 彼は生涯かけて何か後世に残る仕事をしたのだろうか。いいえ、そのようなものは何もしていない。彼は生涯、羊や山羊を飼いながら旅をした。彼は放浪者だった。それにアブラハムは当時の文化、政治の中心地、チグリス・ユーフラテス川流域(現在のイラク)からは外れて、周辺の地、パレスチナに移り住んで行き、辺境の人になった。これは人生における平穏な生活、安全と保証の生活を断念して、神に導かれるまま、各地を放浪し、寄留者として、異邦人として住むことを意味した。

 確かに彼は、見える物を何も残していない。それでは彼は何も残さなかったのだろうか。そんなことはない。彼は残した。彼が残したもの、それは目に見えないもの。それは生き方。それは精神。それは信仰である。それは、神、即ち、神信仰を介在にして、生存を脅かす危機と苦悩の日常にあっても逆説的に、どこか楽観的であろうとした生き方であり、精神であり、信仰であった。具体的に見ていこう。

 アブラハムとその妻サラとの間には高齢になるまで子どもがいなかった。古代にあって跡取りがいないということは将来の希望がないということを意味した。他の人から見たら将来のない不幸な人間、不幸せな人間と思われたかもしれない。

 しかし、彼は絶望的な思いには囚われなかった。そのような彼にも、やがて、高齢の身で奇跡的に子どもが与えられる。しかし、神は、年取ってから折角授かったその愛する独り子を神に犠牲として捧げるように、その子を断念するように、と彼を試みる。神が残酷、冷酷な「悪魔」のように思える存在となって、彼の前に立ちはだかったのだ。しかし、アブラハムは、彼の前に立ちはだかるこの不条理とも思えるこの神に、愚直にもなおも従おうとした(創世記22章)。

 それは、過酷で厳しい現実や試練の中でこそ、神に深く信頼して楽観的であること、あるいは楽観的であることへの肯定ともいうべき、精神、生き方、信仰を指し示すものである。これは旧約聖書の教えの屋台骨である。それをアブラハムは生きたということだ。

 ドイツ人で第2次世界大戦の時、ヒットラー暗殺計画に関わったとして捕らえられ、殺害されたボンヘッファーという神学者がいる。彼が獄中で書いた書簡で、楽観主義について次のように書き残している。「楽観主義はむしろ生命力であり、他の人々が失望しているところでも希望する力、いっさいが失敗したと見える時にも頭を高く上げている力です」と書いている。

 

 マタイ福音書の冒頭にイエス・キリストの系図が出てくる。11節に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とある。神から「わたしの愛する子」と呼ばれたイエス・キリストもまたアブラハムの子孫なのだ。今日は主の晩餐式を共に守る日である。主の晩餐式は私たちの希望の証である。主の晩餐式で私たちがアブラハムの子孫であるイエス・キリストに繋がっている、つなげられていることを思い起こしたいと思う。神は裏切らない、見捨ててはおられないことを、ここにおいて思い起こしたいと思う。