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闇から光に向かって叫ぶ

2023年7月16日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

 「闇から光に向かって叫ぶ」 マルコによる福音書10章46-52節

 イエスの生涯とその教えを記した「福音書」の中には、人がイエス(神)を信じて救われるための、いわば求道・信仰のモデルのような物語がある。その一つは盲人バルティマイの奇蹟物語である。

 イエスと弟子たちが伝道の途次、エルサレムからエリコという町に行き、町から出ようとした時のこと。道行く人々の情けにすがり物乞いしながら生きていたバルティマイという盲人が、イエスが来られることを聞きつけ、「ダビデの子のイエスよ。わたしを憐れんでください」と叫んで出てきたのだ。彼はすでにイエスの噂を聞いていたのだろう。この時を逃してはと言わんばかりに、必死に「叫び続けた」わけだ。

 周りの者たちは、黙らせようとたしなめるのだが、彼は叫び続ける。これを見たイエスが、人を介して「安心しなさい」とバルティマイを呼び寄せられると、彼は「上着を脱ぎ捨て」イエスのところに来たと書かれているので、もうなりふり構わずの行動である。真剣そのもの。

 これに対してイエスが、「何をしてほしいのか」と、あえて抱えている問題と願望の提示を求められると、彼は直ちに「目が見えるようになりたいのです」と必死の嘆願をする。イエスは彼の信仰に応えて、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言って彼の目を癒されたのである。

 さて、この物語、よく読むと、そこにはイエスを信じて救われるための基本的なプロセス・信仰態度のようなものがよく表されている。まず機会を逃さないこと、そして障害があっても求め続けること、さらに邪魔なものは脱ぎ捨てること、そして、はっきり「見えるようになることです」と伝えることである。この必要条件がバルティマイの中に見られるのである。

 ところで、ここで考えてみたいことは、こういうバルティマイの信仰、つまり「あなたの信仰があなたを救った。」と言われるような信仰は、いったいどこから出てきたのか、ということだ。いったいその恵みに至る信仰は何に起因しているのだろうか。

 バルティマイについて詳しい情報がないので、その点について込み入った分析はできないが、彼が盲人であり、道端で物乞いをして生きていたという背景なしに考えるわけにはいかない。一言で言えば、彼の人生は個人的にも社会的にも絶望的な状況に置かれ、精神的には見捨てられ同然で押しつぶされていたのではないだろうか。極端に言えば、自分が自分を見捨てざるを得ないような悲惨な状態だった、と言ってよいだろう。

 こういう状態というのは叫ぶことしかできないわけだから、心は神に向かう可能性が大きい。そこしか希望がない。むしろ、神だけしか頼れないという意味において、幸いなことでもあると言ってよいかもしれない。この逆説について、イエスはマタイの福音書の中で、「悲しむ者は幸いです」(5:4)と言っている。悲しみ叫ぶということは、闇から光に向かう道程であり、それを通して人の心の目は「開眼」に至るのである。

 

 この開眼をめぐって留意したいことが一つある。それは私たちがもし「道端」にいながら自分の姿に気づかずにいるなら、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(ヨハネの黙示録3:17)と言われるような生活を送っているということである。そこには自分の惨憺たる状態に対する認識はなく、叫びもないのだ。そのことを考えると、バルティマイが叫ぶことができたということは、素晴らしい恵みだったと言える。こうも言えるのではないか。神に向かって「叫ぶこと」は信仰の表明でもある、と。それがイエスから「あなたの信仰があなたを救った」と言われる「信仰(信頼)」ではないだろうか。