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慰められるイエスの愛

2023年7月9日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

 「慰められるイエスの愛」 ルカによる福音書7章11-17節

 この世はどうしてこんなに悲しいことが多いのだろう。常にではないにしても、時にそう強く感じることがある。それは死別を経験したような時。身内はもちろんだが、親しい間柄にある人たちの死は特に心身にこたえる。

 聖書には、この死別による悲嘆について深く考えさせられる物語がいくつもある。その一つは今日の聖書個所、ルカによる福音書に出てくる「ナインのやもめ」の話。その死別の物語というのは、イエスがガリラヤの小さな町ナインに行かれた時のことだ。イエスは、ひとり息子を失った母親と、棺を担ぎ出して葬りに行く人々に出会われたのだ。

 パレスチナの風習から想像して、おそらく泣くために雇われた人たちが頭を振り、甲高い声を出しながら歩いていたのではないだろうか。悲哀が漂うなんとも物悲しく寒々しい風景が浮かんでくる。12節に「ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。」書かれているが、淡々とした描写だけに、今更ながら生を飲み込んでいく死の恐れというものを感じてしまう。

 このような母親の悲しみは、その身になってみなければ分かるようなものではない。ここは逗子なので、この地に関係した昔あった悲劇の事故を取り上げてみる。それは皆さんもよくご存じの、ボートの転覆で逗子開成中学の十二人の生徒が亡くなった事故を歌にした「真白き富士の嶺」だが、その4節に、「神よ、早く、我も召せよ」という母親の悲しみを綴ったくだりの歌詞がある。おそらく、ナインのやもめもこの世のすべてに希望を失い、自分も息子と一緒に死んでしまいたいような気持だったのではないだろうか。それが親の気持ちであろう。ちなみにこの歌はアメリカの賛美歌を原曲に用いて、今の鎌倉女学院の先生が歌詞をつけた鎮魂歌だと言われている。

 しかし物語は一転する。イエスはその哀れな母親を見て「憐れに思い、『もう泣かなくともよい』」と慰め、棺に手をかけ、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われると、彼は起き上がって話し出したというのだ。群衆は驚きの域を超え、「恐れ」を抱き、神を崇めたという奇跡物語である。狂喜せんばかりの母親の顔が浮かんでくる。

 私たちは、このような物語を読むと、すぐ奇跡の出来事の方に関心が行くが、少し丁寧に読んでみると、この物語にとって大事な言葉があることに気づく。それは「憐れに思い」という言葉。ギリシア語では「スプランクニゾマイ」と言い、「内臓が揺さぶられる」「深い同情心に突き動かされる」というような意味を持っている。岩波訳では「腸がちぎれる想い」と訳している。いわゆる「断腸の思い」。相手の苦しみを見て、こちらのはらわたも痛んでくるという意味。英語では「コンパッション」という言葉が当てられているが、これは共感というより、痛みを共にするという意味で「共苦」と言ってよいかもしれない。

 さて、イエスはこのように、ご自分の内臓が引きちぎられるような憐れみをもって、ひとり息子を亡くした母親に「もう泣かなくともよい」と言われたのである。悲嘆のどん底にあった彼女はどんなに慰められたことだろうか。これまた、この母親の立場になってみなければ分からないことだが、こちらの悲しみを自分の悲しみであるかのごとく、内臓が揺さぶられるような思いをもって接してくれる人がいるというのは、どんなに大きな支えだろうと思う。人はこのような愛に触れる時、心は動きだし、生きていけるようになるのである。

 ちなみに、聖書に出てくるたとえ話の中でも有名な「放蕩息子」の物語の中に、放蕩に身を持ち崩し、落ちぶれ果てて故郷に帰ってきた息子を見て、父が走り寄る場面があるが、実はそこにも、同じ意味を持つ「憐れに思い」が出てくる。息子はそれこそ、内臓を揺さぶられるような愛をもって迎えられたのである。その他にもマルコ140以下の「重い皮膚病の男の癒し」、マタイ1414の「五千人の給食」なども「憐れに思い」が出てくる。

 

 さて、これらのことから聞き取りたいメッセージは、神は私たちにそのような深い愛をもっておられるということである。神の愛のなんと深く、そして慰めに満ちたものであるかということである。