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神、我らと共にいます

2023年6月25日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「神、我らと共にいます」 マタイ福音書1章18-25節

長野県中野市で4人が殺害された事件で逮捕された男は、殺害された近所の女性2人に「ひとりぼっちと言われたように聞こえ、恨みを爆発させた」などと動機を語ったという。家族と一緒に暮らしながら「ひとりぼっち」、孤独を感じ、孤立を深めていたことがうかがえる。

私たちは「いっしょに遊ぼう」とか、「いっしょに行こう」、「いっしょに生きていこう」などと、だれかから言われるとうれしいものだ。一方では「自分でやれ」「ひとりでできるだろう」「他人に頼るな、甘えるな」と言われて育ってもきた。確かに厳しい社会を生き抜くには「自立と自律」が必要。しかし、「いっしょに」と言ってもらうと、自分は独りぼっちじゃない、見捨てられていないと感じて、少しは頑張れそうな気がしてくるから不思議だ。この安らぎを覚えることができる「人間的居場所」がとっても大切であることが社会心理学でも言われている。

 良い親は「こうしなさい」「ああしちゃいけない」と模範を示しながら、「いっしょにやってみよう」「お母さんも我慢するから、あなたも守ってね」と、いっしょの低い目線で励ます。良い教師は「さあ、ここまでこい」と目標を示したり、「何でそんなことをしたんだ」と反省を促しながら、一方で「いっしょに学ぼう」「おれも背負うから、お前も頑張れ」と励ます。共に汗を流すのだ。

 たぶん人間は、いっしょにいるように造られているし、いっしょにいるときが一番うれしくなるように定められているのだろう。旧約聖書の創世記には、神ははじめ一人の人間を創造したが、やがて「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助け手をつくろう」と言って、もう一人の人間を創造し、二人をいっしょにいるようにしたとある。

 つまり、「他者」とは、「いっしょにいるべき助け手」なのだ。いっしょにいてもちっとも助けてくれない、と感じることもあるかもしれないが、いっしょにいること自体が、すでに助けなのだ、ということである。この世で、他者から言われて最もうれしい言葉の一つは、間違いなく「あなたといっしょにいたい」だと思う。   

聖書には、神ご自身が「あなたと一緒にいたい」という意思をはっきりと表明している個所がある。それが今日の聖書個所。少し順を追って見ていこう。18節に「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」と書き始めているが、じつはイエス・キリストの誕生の目的を、主イエスに与えられた「名」を手がかりにして示しているのである。そこには「二つの名」が記されている。一つは、ヨセフの夢に現れた天使が告げた名。21節に「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい」と言われている。その理由は「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」と書かれている。もう一つの名は、預言者を通して言われた名として「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」である。23節だが、これはイザヤ書714節のみ言葉から引用されている。この「インマヌエル」という名はどういう目的を示しているかというと、「神われらと共にいます」という意味である(23節)と言われている。そのことを目的としてイエス・キリストは誕生したというのである。「名は体を表す」とよく言うが、名前にそのものの本当の姿が表れている」という意味だ。「イエス」にしろ「インマヌエル」にしろ、その二つの名は神の本当の姿というか、本性を表しているといえるだろう。

主イエスの生涯は、この「インマヌエル」の名の通り、神が我らと共におられる生涯だった。主イエスの言葉もいろいろな行為も「神が我らと共にいます」ことを示していた。4つの福音書はそのことを証している。主イエスが病人を癒された時、神の恵みの力が働いた。主イエスが徴税人を招いて共に食事をされた時、神が共におられて神の国の食事の前ぶれ、先取りが起きたのだ。ともかく神は、どうしても、あなたといっしょにいたいのである。それは神の愛から出てくる必然である。神の本性、「神は愛なり」から出てくる「共に」であり「一緒に」である。

そのことをマタイによる福音書は、さらにはっきりと示している個所がある。マタイ福音書の最後28章の最後の場面。それは高く挙げられた主イエスの言葉として理解されるが、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と書かれている。これを「囲い込み」という。囲い込みというのは、マタイ福音書の全体は、123節の「インマヌエル」名と最後の2820節の「いつもあなたがたと共にいる」という主の言葉によって、囲われていることをいう。そうだとすると、キリストの誕生の目的は、主がただ十字架にかかるためだけでなく、十字架にかかった方として復活し、高く挙げられ、高く挙げられた方として「いつも私たちと共におられるため」であった、そして今もここに臨在するためであったというのである。高く挙げられ神と一つにされた主イエスは「いつも」、「今日も」私たちと共におられる、というのである。

 

その具体として、私たちの目に見える形で与えられているのが、信仰共同体としての教会である。教会は礼拝をとおして、この神と共にいる、合わせて、信仰の友と共に生きていることを実感する場、居場所である。そこから生きる力、慰め、励まし、助け、癒しなど多くの恵みをいただき、この世へと派遣されていくのである。