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みんなも呼びな 神さまを呼びな

2023年6月11日 横浜戸塚バプテスト教会 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

「みんなも呼びな 神さまを呼びな」 マタイ福音書62534

八木重吉というクリスチャン詩人の詩に「神を呼ぼう」という詩がある。「赤ん坊はなぜにあんなに泣くんだろう /あん、あん、あん、あん/あん、あん、あん、あん/うるせいな/うるさかないよ/呼んでいるんだよ/神さまを呼んでいるんだよ/みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」。

確かに赤ん坊は泣き叫ぶ以外、何の手段をもっていない。しかし、赤ん坊は生まれながら神さまを知っているかのように、叫び続ける。それは私たちが手段も方法もない時、何をなすべきかを教えているかのようだ。赤ん坊は全身をもって泣き叫ぶ。言葉も知らない、歩いて取ることもできない、物を使うすべも知らない、まさに何もできない、その時、神が唯一与えた手段は、神に呼び求めることだったのだ。赤ん坊は、その目的のものが与えられるまで、決して泣きやまない。神への信頼、あるいは要求の激しさだろうか。全身をふるわせて泣き叫ぶ。それは私たちの祈りに対する指針ですらあるようだ。私たちの祈りは、ぼそぼそとしていないだろうか、それは叫びだろうか。神を呼ぶと言えるものだろうか。

有名な詩編231節にこうあり。「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」。これは自分が羊であるという自覚を歌っている。羊というのは、羊飼いの守りと導きの中で生きるし、その中でしか生きることができないのだ。その羊飼いが自分の前にいてくださる。だから自分には乏しいことがない。それで自分には十分だと歌っているのだ。人間としての満ち足りた生き方がそこに比喩的に描かれている。

しかし、私たちは、あれがあればこれがあれば満ち足れる、自分の生活は安定するのではないか、と考える。しかし、実はそうではなくて、私たちが導かれて生きるということの中に、私たちの満ち足りた人生があるということがこの短い言葉の中に歌われているのではないだろうか。だから、私たちが何か道を開拓するというのではない。神に導かれながら私たちは歩いていくのである。導かれながら、一つひとつ前に開かれていく道を歩いていく。これが人間本来のあるべき姿。私たちはそれを信仰と言うが、信仰というのは特別なことではなくて、人間が本来あるべき姿、歩き方のことではないか。

イエス・キリストは言われた。「明日のことまで思い悩むな」(マタイ634)。思い悩んだところで、明日は私たちの手の中にはない。よく言われるように一寸先は闇。何が起こるかわからない。どんな災難が待っているかわからないということ。私たちの人生は誰にとっても、不安といえば不安、頼りないといえば頼りない。だから、私たちは明日というものを自分のもとに確保しようと思う。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩む(2531)。その私たちに対して主イエスは言われる。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか」(27)とはっきり言われる。明日の命は、私たちの手の中にはない。といって、明日のことまで思い悩んでもしょうがないではないか、と短絡的に主イエスは言われているわけではないのだ。

その前に、前提がある。空の鳥をよく見なさい、野の花を見なさい、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる、野の花を装ってくださっているではないか、というのである。さらにまた32節で、あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である、といわれるのである。

これらの言わんとすることは、要するに、天の父、父なる神によって私たちは養われている、そういう存在だということである。命は私たちの手の中にはない、それは神の手の中にある。ヨブ記121「神は与え、神は奪う」とあるとおり。だから神は創造者としての責任と愛をもって養ってくださるのだ。必要なものは与えてくださるお方であるということ。だからその神に求めなさい。だから「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われるのだ。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる、と約束されている。

 

その前提のうえで、だから、「明日のことまで思い悩むな」と言われているのである。そこで私たちに求められていることは「何よりもまず、神の国と神の義を求め」ること。赤ん坊のように「みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」と八木重吉が歌っている通りである。