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主の訓練を覚えよ

2023年6月4日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「主の訓練を覚えよ」 申命記8章1~10節

 イスラエルの民たちは指導者モーセに率いられて、奴隷であったエジプトの地から脱出し、約束の地を目指して荒れ野を40年間旅をした。旅をしたという言い方はきれいごとで、実態は40年間、荒れ野をさまよっていたのだ。それは主に従うための訓練の時だったと言えるだろう。しかし今度は約束の地カナンに入り、豊かになるとイスラエルの民たちは主の恵みを忘れ去っていったのだ。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」である。イスラエルの民たちだけの話ではない。それは私たちにも当てはまる話ではないか。そこで申命記は、モーセの口を通して「荒れ野の旅という原点を忘れるな。荒れ野で主が教えてくださったことを忘れるな」と繰り返し語るのである(2)。皆さんは、自分の生きる上での原点、何かあるといつも思い出して戻るところはありますか。

イスラエルの民たちの原点は40年間の荒野の旅だった。それは次のようなことから始まった。イスラエルの民が荒野の旅に出てすぐ、パンが食べたいと言って泣き言を言ったのだ。その時、主は彼らにマナという食べ物をお与えになった。マナは毎朝、露のように大地に降ってきたのだ。朝起きると一日分のマナだけ拾うことができた。しかし余分に拾っても次の日には腐ってしまったという(出エジプト16)。それは、「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるため」だったと言う。蓄えがきくパンがあれば、神を信じなくても生きていける。しかし主は、パンでなくマナを与えることによって、明日の分までがむしゃらに蓄えようとする生き方を戒められた。このようなマナによる生活は、信仰生活そのものだと言えるだろう。民は、明日マナを用意していてくださる主の愛と恵みに信頼して夜、床につく。そして朝起きては、そのマナ、すなわち主の励ましと戒めと愛のこめられた食事を味わって一日一日を生きたのである。それは主による訓練だったのだ。

 ただしイスラエルの民に言わせれば、こんな大変な旅が訓練だなんてかなわない、主は我々を苦しめようとしているだけじゃないか、というところだったかもしれない。しかし、40年の旅の間、着物はすり切れず、足もはれなかったではないか、必要なものは満たされていたではないか、とモーセは民に語りかける。大変な旅だったに違いない、しかしその大変な中を、主が支えてくださったのではないか、とモーセは静かに問いかけている。この苦しい訓練の間、主は涼しい所から高みの見物をしておられたのではなく、マナを降らせ、服を保たせ、足取りを支えてくださったのである。主は、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって民を照らし先導し、民を離れることはなかったのだ(出エジプト1322)。共にいてくださる愛の主なのである。このような主の愛を受けた旅路こそ、イスラエルが決して忘れてはならない原点なのである。

 

 この訓練は、確かに苦しいものだったが、しかしそれは民を幸いに導こうとするものだったのである(16)。私たちに対する主の愛は、私たちに何の試練に遭わせないことではない。それなら私たちは神のロボットでしかない。しかし主は私たちを人格として尊び、私たちがぶつかる課題を取り去るのでなく、この課題に直面する私たちに寄り添い、勇気を与え、励まし、支えてくださるのである。こうして与えられた出来事に主と共に取り組んでいく時、その出来事を通してしか得られない恵みを受け取ることができるのである。苦しい日々を主に信頼して歩む時、その経験は他の何ものによっても得られない宝となるのではないだろうか。