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義とされたのは誰か

2023年5月21日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「義とされたのは誰か」ルカによる福音書18章9~14節

 今日の聖書箇所で、主イエスは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(189)、対照的な二人の祈りのたとえを話される。ここで主イエスは対照的な二人の祈りのたとえを通して、何を教えようとされたのだろうか。

このたとえの眼目は、義とされる者は誰か、ということ。義とされるとは、神に「よし」とされること。神に罪赦され、神に受け入れられることである。それはまず、神の方から、神と私たちとの間に、欠けや不安のまったくない十全な交わりを結んでくださるのである。神との和解である。そして、共に生きてくださるのである。そのようにして共におられる神は、決してその関係を閉ざされない。赦すために神はいつも私たちの祈りを待っておられるのである。

 では、対照的な二人の祈りを見てみよう。ファリサイ派の人の祈りは、「わたしはほかの人たちのように、……でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」とあるように、人と比べて見下している傲慢さに問題がある。それは、祈りながら、彼の目は、神さまにではなく、人に向いていることにある。神の前に立ちながら、心は人に向いている。人と見比べて自分を誇っている。そこに、生活態度としては申し分のないこの人の祈りに隠された偽善が見え隠れしているのである。

 もう一人の登場人物、徴税人の態度は正反対である。彼の祈りは、「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」(13)。人は、無意識の内に過ちの言い訳を探して生きている。そしてその言い訳はいつでも、いくらでもある。自分の生きている現実を誤りなく、ごまかしなく見ることは本当に難しい。人間の本性は、人には厳しく、自分には甘い。しかし、この徴税人は「罪人のわたし」と告白している。それは、神の前に出てはじめて明らかになる生の現実である。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず」とあるように、徴税人はとても神の前に出られるようの者ではないという意識があるが、心は神に向かっている。だから神に向かって「憐れんでください」と祈ったのである。

 では、神の前に出るとはどういうことだろうか。それは神はどのように見ておられるか考えてみることではないだろうか。もっとわかりやすく具体的に言うならば、神の言葉である聖書に照らして自分を返り見ることである。

 ファリサイ派の人の顔はおそらく堂々と天に向けられていただろうが、心は神にではなく、人に向いていた。しかし、顔を天に上げようともせず、うつむいて胸を打つばかりの徴税人の心は、すべてを知っておられる神の前に一人立っている。もし、ファリサイ派の人がこの徴税人と同じように神のみ前に立っていたら、人を見下して自分を誇る偽善が暴かれ、徴税人と同じ告白をせざるを得なかっただろう。

関係性が人間を形成するように、神との関係がその人の信仰の姿を作り、その信仰の姿が祈りに現れる、というわけである。さらに言うならば、神との関係が他者との関係に現れるということでもある。

 対照的な二人の祈りのたとえを話された後、イエスは言われた。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(14)。聞いていた人々は、この言葉に言いようのない衝撃を受けたことと思う。だれもがファリサイ派の人が義とされ、徴税人は捨てられると思っていた。恐らく徴税人自身もそうだろう。このイエスの言葉は、その世間的常識を根底からひっくり返す、驚くべき宣言である。

 イエスに「義とされて家に帰ったのは」と言われた徴税人は、その後、神と共に、それまでの生活を清算して新しく出直したことだろう。彼は、目の前に開かれた、まだ一度も歩いたことのないこの新しい道に踏み出していったことだろう。

 

 主イエスは、このたとえを通して、この出発点にすべての罪人を招いておられる。神の前に出て神と向き合って、己の罪の現実を認め、御前に告白しようとする者を神は丸ごと受け止めてくださる。そのようにして、義としてくださる神の前に神は私たちを招いておられる。そこから、神が私たちの全存在を担ってともに歩いてくださる神との新しい生活が始まるのである。義に生きる生活が始まるのである。神は今日も、「罪人のわたし」を招いてくださっている。「わたしを憐れんでください」と主の前で告白し祈りましょう。