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感謝して祈りなさい

2023年5月14日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「感謝して祈りなさい」 フィリピの信徒への手紙4章6-7節

 祈りについて書かれている御言葉は聖書の中にたくさんある。詩篇などの多くは祈りの言葉と言っていいだろう。また、主イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」は特に大事にされている。パウロも手紙の中で多く祈りについて書いている。今日の聖書個所もその一つで、比較的よく知られた、印象深い個所である。

 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(467)

 何も思い煩うことはないではないか。あなたがたは祈ることができるではないか。そうです、祈りは人間に与えられた神さまからの贈り物である。信仰があるなしを問わない。どんな宗教を信じるかも関係ない。人間だけが祈ることを知っている。そこで、パウロは、思い煩いを振り切ってこそ、初めてなしうるかと思われる祈りを勧めている。そのような祈りは、事ごとに感謝をもって、祈りと願いとをささげればよいのだと言うのである。ここでも私たちの求めるところを何でも申し上げたらよいではないかと勧められている。ただし、よく読んでいくと、すぐ分かることだが、いかなることについても、「感謝を込めて」祈りと願いをせよと言っている。パウロは、あらゆる求めが、常に感謝を伴うものであるはずだと言っているのだ。

 感謝を伴うと言ったが、常識では、祈りや願いが満たされて初めて感謝することになるのではないか。しかし、ここでは、求める祈りが先にあって、その後に感謝がくるというのではない。感謝が先だっている。感謝に始まる。何を祈り求めても、それに感謝を添えるのだ。そして、もちろん感謝に終わるのだ。昔、経堂教会の中村三郎先生は、よく言われた。キリスト者の生活は、何事も感謝に始まり感謝で終わる。祈りに始まり祈りで終わる。よく言ってましたね。耳タコです。その頃のことだが、夜の祈祷会で名前は忘れたが、アメリカの女性クリスチャンの書いた『いつも感謝』という本を紹介しながら、先ほどの何事も感謝で始まり感謝で終わることをよく言われた。その頃の私は信仰が未熟だったのだろう、すべて感謝と言われてもなあ、とその教えに実感が伴わなかった。しかし、段々とすべてのことに感謝することの意味やその恵みに気づかされてきた。そういう祈りこそ、私たちに深い、人の知恵では測ることのできないほどの平安が与えられ、祈る私たちの心を守るのであるということを少しずつ実感するようになった。そしてさらにパウロが「キリスト・イエスによって」とはっきり言っていることを忘れてはならないと思う。祈りの終わりに「イエス・キリストのみ名によって祈ります」の「イエスによって」ですね。何事も主によってなされるということである。

 祈りについてのパウロの言葉と言えば、もう一つ、すぐに思い起こすものがある。第一テサロニケ5章の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(1618節)。ここでパウロは、「絶えず祈りなさい」と言う。祈りを絶やすなと訴えている。そして、その祈りを勧める言葉を、サンドイッチにように挟んでいるのは、一つは、「いつも喜んでいなさい」という勧めであり、もう一つは、「どんなことにも感謝しなさい」という勧めである。いつも、絶えず、すべてのことについて、喜び、祈り、感謝する。ここにパウロの信仰の理想が語られているとも言えるだろう。いやむしろ、ここにパウロ自身の信仰の生活、祈りの生活が反映しているのではないか。パウロの言葉に即して言うならば、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」なのだ。ここでも、「キリスト・イエスにおいて」と、はっきり語られているのを心に刻みたいと思う。

 

 私たちの人生には、様々なことが起こる。思わず感謝の叫びを呼び起こすようなことも起こる。しかしまた、私たちを不安にさせること、恐れさせること、苦しめること、悲しませることも起こる。心の表面には絶えず波乱が起こる。私たちはそのたびに揺れ動く。しかし、そのような時にも、私たちの心の深いところには、存在の深いところにと言った方がよいかもしれない、そのところで揺るがない平安がある。それは、いつどんなところにおいても、主が共にいてくださるからである。インマヌエルの主である。これこそ感謝すべき第一のこと。感謝することによって、私たちはこのことを繰り返し、神のみ前で承認する。繰り返し新しく、この信仰の事実に立ち返る。そこから祈りが始まる。そこからこそ、どんなことでも祈れる祈りが始まるのである。だからこそ、感謝がなければ祈りは始まらず、祈りは続かないのである。何事も感謝をもって祈ろう。主が共にいてくださる。