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恐れることはない

2023年5月7日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「恐れることはない」 ルカによる福音書8章40-56節

 イエスが帰って来られると、会堂長のヤイロはイエスのところに行って、会堂長としてのプライドを捨て、イエスの足元にひれ伏し、死にかけている一人娘のために懇願する。ここに切実な命の叫びがある。

 しかし、ここにもう一人、切実な命の叫びをもった女性がいた。押し迫る群衆にまぎれて「後ろから」イエスの服にふれた女性である。「十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえなかった」(43)女性だ。律法では出血が止まらない女性は「けがれた存在」として(レビ記1519-30)、人にふれるような場所に出ることを禁じられ、社会的な交わりから断たれていた。女性として子どもを産むことのできない苦しみも負わされて生きていた。二重三重の苦しみが彼女を絶望へと追いやっていた。

 その彼女がこのイエスならと律法を犯すことを承知で「後ろから」イエスにそっと近づき、その衣に触れたのだ。触れた時、不思議にもその病は癒された。ところがイエスは「わたしに触れたのはだれか」と言われる。そばにいたペテロが「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」といぶかしがるほど、イエスのこだわりは人々に奇異なものに映ったことだろう。

 このイエスのこだわりとは何だろうか。イエスにとって、彼女は群衆の中の一人ではないのだ。「わたしから力が出ていったのを感じた」イエスは、その相手が、他の人には分かってもらえない「命の叫び」を抱えた者であることを感じ取られたのだ。それゆえイエスは、女性が 「後ろから」触って癒された時、「大勢の中の誰か」で終わってしまうのではなく、そこで彼女と言葉を交わして人格的に出会いたいと「こだわられ」たのである。そして彼女にとってもこの出会いは単に「病気がいやされた」だけではなく、それ以上のあるものを受け取ることになったのだ。それは信仰。自分の病気のみならず、精神的な苦しみを含め、自分の生のすべてを受け止めてくださったイエスとの出会いが彼女に真の信仰に目覚めさせたのだ。怒られるわけでもなく、イエスはさげすまれるわけでもなく、正面から一人の人間として向き合ってくださったのだ。彼女はすべての恐れから解放され、信仰を得た。だからイエスは宣言される。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。すべてを受け入れてくださる方がおられる。これほどの安心はない。だから彼女はすべてを告白した。震えながらではあったが、怖さを乗り越えることができたのだ。

 そこに娘が亡くなったという最悪の知らせが届く。ヤイロは深い失意のうちに落とされたことだろう。ところが、人間の希望のついえたところで、イエスによって「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」という、神における希望が宣言される。それぞれが抱えている切実な命の叫びを受け止め、それぞれにふさわしい形で救いを現わしてくださる神と出会うために、ヤイロは絶望を味わわなければならなかったのだ。しかし、その時のヤイロの切実な命の叫びは神に届いていなかったのではない。確かに神はその叫びを受け止め、彼が絶望を味わっているその時にこそ共に歩んでくださったのである。

 

 このように絶望の淵にある長血を患っている女も会堂長のヤイロもともに、切実な命の叫びをイエスのところに持っていく。それに対してイエスは切実な命の叫びを受け止め、人格的に出会われるのだ。そこに救いはあり、癒しがある。私たちも、真剣にイエスに向かって祈りたいもの。必ずイエスはそれぞれにふさわしい形で応えてくださる。イエスは人格的にそれぞれにふさわしく向き合って出会ってくださる。信じて祈りましょう。