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忍耐して待ち望む

2023年4月30日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「忍耐して待ち望む」ローマの信徒への手紙8章18-25節

 仕事に行き詰まり、将来に何の望みも持てなくなった時、人はどうするだろうか。朝、目が覚めても起き上がることもできない、深刻なうつ状態に陥ってしまう人もいる。また、夫婦関係、親子関係、職場での人間関係などで悶々とすることもある。程度はどうあれ、誰にでもそういう経験があるのではないだろうか。

 聖書にも、まるでうつ状態の中で呻きながら言葉を発しているような場面がある。それは使徒パウロの言葉。今日の聖書個所、ローマの信徒への手紙の8章。この個所でパウロは何を言おうとしているのだろうか。結論は、最後の「忍耐して待ち望む」だ。これを書き記すパウロには深刻な問いがある。

 福音を伝え教会を設立する使命を与えられたパウロだが、その宣教活動は苦難の連続だった。ユダヤ人から迫害を受け、また教会内でも使徒職の正当性をめぐって誹謗中傷を浴びる。外からも内からも弾が飛んでくる。パウロには自分がキリストの救済を完成させるため神に召し出されたのだという確信があった。にもかかわらず、現実は何も変わらず、むしろ彼の苦難は深まるばかりだった。どこを見ても希望がないと、パウロは呻く。

 この呻くほどの苦しみをパウロはここで「産みの苦しみ」という言葉でとらえ直しをする。旧約聖書には、妊婦が苦しむイメージが繰り返し出てくる。妊婦は苦しみ呻き、その苦しみの極みにおいて新しい命が誕生する。つまり、妊婦の苦しみとは新しい命の前兆であって、苦しみが大きければ大きいほど、新しい命の誕生が確かになるのである。

パウロはこの「産みの苦しみ」というとらえ方で、現在の苦しみの意味を説明しようとする。つまり、今人々が抱いている苦しみは、これからの希望の前触れであるということだ。

 しかし、同時にここで重要なのは、「希望」とは目に見えないものだということ。つまり、今はどこにも希望はなく、絶望的な状況だということになる。これは極めて悲観的な現実認識である。けれども、いや、だからこそ、今は見えないけれども希望は「ある」のだと逆説的に思考するのである。

 苦しみはなくならず、むしろ増していくばかり。しかし、それは妊婦の苦しみなのだ。苦しみが大きくなればなるほど、その向こうにある救済が近づいてくる。現在は、それに至る産みの苦しみ、つまり希望に向かう苦しみの時だと考えるのである。

 それゆえに、彼は「忍耐して待ち望む」という結論に至る。希望を、今はまだ見えていない将来に投影して、現在の状況に耐える。そういう意味で、現実に行き詰ったパウロは、希望に生きるのだと教えている。希望があればこそ乗り越えられる。その希望とは主が与えて下った永遠の命の希望である。救いの希望。永遠に神が共にいてくださる希望である。

 私たちは「終わりの時」、天国に召される時に向けて目に見えない希望を抱くことで、現在の苦しみを引き受けて前に進むことができるのである。まさにパウロが語るように、目に見えているものは希望ではなく、まだ見ていないからこそ希望なのだ。その希望を持つからこそ、パウロは「忍耐して待ち望む」という結論に至る。

 

 目が開かれるような気がする。行き詰っても、希望を捨てない。まだ見ていない希望を抱くことによって人は前に進めるのだと思う。忍耐して待ち望め、このみ言葉を励みに困難を乗り越えていこう。