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逃れの町

2023年4月16日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「逃れの町」申命記19章1-13節

 古代オリエントの社会においては、相手を傷つけた者に対する処罰としては、「目には目を歯には歯を」という同害報復が常識だった。「ハムラビ法典」にある規定から来ている。これは現代の私たちには非常に厳しい掟と映るが、当時においては必要以上の復讐がなされないようにするための知恵でもあった。倍返しはダメだということ。しかし今日の聖書は、そのような常識と異なる対処の仕方を教える。すなわち、故意ではなく殺人を犯した者が逃れることができるように「逃れの町」を設けよというのだ。 

復讐が常識であった当時の社会は、裁き合う社会だと言えるだろう。私たちの社会でも、勝手に人を裁き、排除することが多くある。たとえば理不尽ないじめや仲間はずれ、そしてそれが容認される、または見て見ぬふりをする雰囲気がある。新型コロナでもマスクをつけていない人を激しく罵倒する,他県ナンバーの自動車を傷つけるなどといった,「自粛警察」と呼ばれる過激な言動が話題になった。ヘイトスピーチも同じ。ヘイトスピーチは,「○○人は祖国へ帰れ」,「○○人は殺せ」などと,特定の民族や国籍の人々について,一律に排除・排斥することをあおり立てたり,危害を加えるとする言動をしたりするもの。また、大きな事件ともなれば、過ちを犯した本人以外の家族や関係者までもが冷たい社会的制裁を受けることが常識のようになっている。       

 そのような当時や現代の社会の常識に欠けていることを、申命記はしっかりと見据えて、「罪のない者の血を流してはならない」と戒めている。逃れの町は、いつ過ちを犯して裁かれる立場におかれるかも分からない「あなた」のためであり、また人を勝手に裁いて追い詰めてしまいがちな「あなた」のためでもあるのだ。

 実際、私たちは相手の過ちを責め立てて、相手に逃げ場すら与えないことがある。しかし主はそんな私たちの罪を取り上げて私たちを追い込むようなことはなさらない。まったく逆に、私たちの罪を独り子イエス・キリストに背負わせることによって、私たちを受け入れてくださったのである。だから、新約聖書の光に照らせば、十字架の主イエスこそが逃れの町だと言えるのではないか。こうして主は、裁き裁かれる世界の中で、逃れの町を備え、私たちが生きることのできる隙間、場所を作ってくださっているのである。

 たとい故意ではなくても、殺人を犯したことは加害者にとっても、被害者の身内にとってもつらいことである。互いに顔を合わせることがあるともっとつらくなる。それに対して主は、頭ごなしに「赦しなさい」とは言わず、「逃れの町」によって互いに距離を置き、祈りつつ関係が癒される時を待つことができるようにしてくださっている。

 現代の日本の社会は逃れの町の存在しにくい社会である。逃れの町の少ない社会だ。少し前までは、都会で失敗をしたり挫折しても田舎に帰れば優しく迎え入れてくれて、何とか傷が癒されて、再スタートができたりしたものだ。確かに最近では、逃れの町のような機能を果たすシェルターや駆け込み寺もあちこちにできたが、とても足らない。

そのような生きづらい現代の日本の社会にあって、その中で私たちは何か問題を起こしたり、弱みを見せたら大変だとひっきりなしに人の視線を気にしているのではないだろうか。それがストレスを生み出して、さらにギスギスした世の中を作り出しているように思う。ゆとりがない。文字通りの「適当」がない。「いい加減」がない。だからこそ、私たちの教会こそが逃れの町でありたいと思う。教会のメンバーも新しく来た人も、互いに過去や罪の重荷を抱えている。教会こそ、互いに罪をごまかすのでも、裁くのでもなく、互いに主の前に同じ罪人として、また同じように愛されている者として、共に十字架の主を仰ぎつつ、共に歩むことが許されていく所ではないだろうか。そこに赦しがあり、癒しがあり、平安があり、慰めがあり、励ましがある。そして助け合いが生まれ、祈り合いが起こる。

 

教会とはそのようなところであると、もっともっと知ってほしいと思う。そのためには、具体的に地域の方々に働きかけていく活動が求められるだろう。最近よく言われる「見える化」である。教会って何をしているのだろうでは、伝道できない。是非皆さんで知恵を出して、できることからでいいので具体化していきたいもの。お祈りしていこう。