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驚きから出会いへ

2023年4月9日 逗子第一教会 イースター礼拝宣教

「驚きから出会いへ」 マルコによる福音書16章1-8節

 イースターの出来事は闇から始まる。日が沈んで、安息日が終った時、ただちに女性たちは香料を買いに行く。安息日は買い物ができなかったからである。夜が来て、闇が深くなる時。それは心の闇、絶望の闇が覆いつくしている時でもあった。愛する者を失い、生きる支えをなくしたのだ。敗北感と悲壮感と絶望の中で、まんじりともせずに夜の明けるのを待ったことだろう。そして「朝ごく早く」墓に行った。そこで、復活の出来事に出会うのである。ある神学者が言った言葉。「私たちは日没に向かって旅する者ではなく、イエス・キリストによって日の出に向かって旅する者である」(W.バークレー)。復活の出来事は絶望から希望の出来事である。 

この世は悪い知らせ、悲しい暗いニュースであふれている。しかし今、暗闇と絶望が支配する墓の中で、福音が告げられる。しかしそれは女性たちにとっては、大きな驚きであった。身も心も縮こまるような恐れであり、驚きであったのだ。確かに考えてみるに、人生は驚きの連続であるように思える。しかし驚きにもさまざまな驚きがある。日常の生活において経験する驚きは、未知のものや新しいものを見聞きする時に感じる感情である。人は未知の世界に踏み込む時、さまざまな驚きを経験する。たとえば異質な自然や風土、宗教や文化や社会に接すると大きな驚きを経験する。海外旅行に行くとカルチャーショックに陥ったりする。しかし時間の経過と共に、新鮮であったものも古くなってゆくものだ(コヘレト1:9)。しかし、女性たちの驚きは時間と共に慣れていくようなものではなく、人生の根源的な驚きとなったのである。

 だから、この大きな驚きに対して、天の使者である若者は「驚くことはない」と言ったのだ。そして「ひどく驚いた」女性たちの心を静めるようにして、良い知らせを告げるのである。告知の内容はまず「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」であった。「ガリラヤ」は主イエスが宣教のために労苦された場所である。弟子たちと出会われ、弟子たちと日常生活を送った場所でもある。その「ガリラヤへ行かれる」という約束が示される。弟子たちが挫折したエルサレムで失望し、落胆している時に、主イエスがガリラヤに先回りするのである。ここに主イエスの先回りの愛がある。愛の先行である。「お目にかかれる」。ペテロたちが見る前に、主イエスが先回りの愛を持って出会ってくださるのである。この真実な出会いこそがペテロたちを立ち上がらせ、主イエスの御跡に従うことを新しく可能としたのである。

 だれも復活についてよく理解し、それを十分に証明することもできない。しかし、神学者のE・シュヴァイツァーは次のように書いている。「空虚な墓の発見という不可解な出来事が信仰を生み出すのではなく、信仰は生ける主がその弟子たちと出会われることによって、生まれるのである」。「出会いです」。この出会いが復活信仰の基盤であり、このような出会いを経験した者が、不可解に思われる出来事を理解するだけでなく、絶望のどん底から立ち上がる力を受けることができるのである。出会いから始まるのである。

 

 私たちは自分が知り経験しているよりも、比較にならないほど大きな救いの中に置かれている。生ける復活のイエスは弟子たちに約束されたように、私たちのガリラヤである苦悩や悲哀、矛盾や不条理に満ちた日常生活、罪と死の定めにある人生の極みの中で、イエスが復活者として出会ってくださるという約束を与えられているのである。私たちはただそれを聞き、承認し、感謝しつつ、受け入れるだけである。