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イエスの赦しに眼差しの中に

2023年4月2日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「イエスの赦しの眼差しの中に」ルカによる福音書22章5462

 イエス・キリストの十二人の弟子の中で、誰よりも主イエスに信頼されたのがペテロだった。彼については、福音書などにたくさんの逸話があり、人間的な魅力にあふれた愛すべき人物でもある。ペテロとはギリシア語では「岩」という意味。主イエスはこのペテロに対して「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」(マタイ1618)と告げた。岩の上に教会を建てるというのは、ペテロに「天の国の鍵を授ける」(マタイ1619)、つまり地上で最大の権威を与えることを意味する。それほどまでに主イエスはペテロに信頼を寄せていた。

 ペテロはもともとガリラヤ湖で魚を獲る漁師だった。特別教養があるとか信仰熱心だったというようなことは何も書かれていない。そのペテロが主イエスに「あなたは人間を取る漁師になる」と招かれて、すぐさま網を捨てて、主イエスの最初の弟子となった。その後、ペテロは他の弟子たちと共に主イエスの宣教に同行していく。

 主イエスの一番弟子で、信頼も厚いペテロは、にもかかわらず私淑する主イエスを裏切ってしまう。しかも、一度のみならず、二度も三度も。主イエスが弟子たちと最後の晩餐を共にした後、ペテロは「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ2233)と主イエスに言ったが、主イエスは「ペテロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(2234)と予告した。

 その後、主イエスをめぐる動きが急展開する。主イエスが捕らえられ、大祭司の家に連行される。それを知った弟子たちは恐ろしくなり、イエスを残して逃げてしまう。しかし、ペテロはイエスを追いかけて密かに大祭司の家の庭に入り、イエスに近づく機会をうかがった。

 ところが、その庭で、お前はイエスの仲間ではないかと疑われ、ペテロはそれを否定してしまう。その後、別の人からも怪しいとにらまれ、二度目の否定をする。さらにしばらくして、また別の人が「確かにこの人も一緒だった。」と証言した時、ペテロは「あなたの言うことは分からない」と強く否定してしまうのだ。その言葉をまだ言い終えないうちに、たちまち鶏が鳴いた。この時のペテロについて、聖書はこのように記録している。「主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(226162

 まるでペテロ自身が証言しているような、彼の感情がほとばしる場面である。イエスの眼差しが注がれたにもかかわらず、顔を背けて立ち去り、一人でおいおい泣いたペテロの姿が書き記されている。

 そもそも「裏切り」という言葉は、聖書ではギリシア語もヘブライ語も「引き渡す」ことを意味する。もちろん、ペテロは直接イエスを引き渡したわけではない。しかし、この場面で無関係を装うことは、イエスを十字架に「引き渡す」ことと同じだった。

 ペテロの裏切りは、人間的挫折の物語である。ペテロは「主の言葉を思い出し」、生涯その思い出が消え去らなかっただろう。しかし、だからこそペテロはそ2023年4月2日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

「イエスの赦しの眼差しの中に」ルカによる福音書22章5462

 イエス・キリストの十二人の弟子の中で、誰よりも主イエスに信頼されたのがペテロだった。彼については、福音書などにたくさんの逸話があり、人間的な魅力にあふれた愛すべき人物でもある。ペテロとはギリシア語では「岩」という意味。主イエスはこのペテロに対して「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」(マタイ1618)と告げた。岩の上に教会を建てるというのは、ペテロに「天の国の鍵を授ける」(マタイ1619)、つまり地上で最大の権威を与えることを意味する。それほどまでに主イエスはペテロに信頼を寄せていた。

 ペテロはもともとガリラヤ湖で魚を獲る漁師だった。特別教養があるとか信仰熱心だったというようなことは何も書かれていない。そのペテロが主イエスに「あなたは人間を取る漁師になる」と招かれて、すぐさま網を捨てて、主イエスの最初の弟子となった。その後、ペテロは他の弟子たちと共に主イエスの宣教に同行していく。

 主イエスの一番弟子で、信頼も厚いペテロは、にもかかわらず私淑する主イエスを裏切ってしまう。しかも、一度のみならず、二度も三度も。主イエスが弟子たちと最後の晩餐を共にした後、ペテロは「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ2233)と主イエスに言ったが、主イエスは「ペテロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(2234)と予告した。

 その後、主イエスをめぐる動きが急展開する。主イエスが捕らえられ、大祭司の家に連行される。それを知った弟子たちは恐ろしくなり、イエスを残して逃げてしまう。しかし、ペテロはイエスを追いかけて密かに大祭司の家の庭に入り、イエスに近づく機会をうかがった。

 ところが、その庭で、お前はイエスの仲間ではないかと疑われ、ペテロはそれを否定してしまう。その後、別の人からも怪しいとにらまれ、二度目の否定をする。さらにしばらくして、また別の人が「確かにこの人も一緒だった。」と証言した時、ペテロは「あなたの言うことは分からない」と強く否定してしまうのだ。その言葉をまだ言い終えないうちに、たちまち鶏が鳴いた。この時のペテロについて、聖書はこのように記録している。「主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(226162

 まるでペテロ自身が証言しているような、彼の感情がほとばしる場面である。イエスの眼差しが注がれたにもかかわらず、顔を背けて立ち去り、一人でおいおい泣いたペテロの姿が書き記されている。

 そもそも「裏切り」という言葉は、聖書ではギリシア語もヘブライ語も「引き渡す」ことを意味する。もちろん、ペテロは直接イエスを引き渡したわけではない。しかし、この場面で無関係を装うことは、イエスを十字架に「引き渡す」ことと同じだった。

 ペテロの裏切りは、人間的挫折の物語である。ペテロは「主の言葉を思い出し」、生涯その思い出が消え去らなかっただろう。しかし、だからこそペテロはその後、キリストに従う人生を選んだ。自らの裏切りを悔いながらも、彼は前に進む。かつて、自分は決して裏切ったりはしないと啖呵を切ったペテロに、イエスがかけた言葉がある。ルカ2232「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 イエスはペテロの痛恨の裏切りをあらかじめ知っていたのみならず、ペテロがそこから立ち直り、彼が同じように苦しむ者たちを励ます人間に成長することを見通していたのだ。自らの裏切りに立ちすくむペテロは、すでにイエスの赦しの眼差しの中にいたのである。

 立ち直れ、立ち直ったら同じ苦しみの中にいる仲間を助けよ。それがイエスの弟子ペテロに委ねられた使命だった。人生最大の挫折をしたペテロはこのようにして挫折を乗り越えていくのである。そこにはいつもイエスの眼差しがあった。この同じイエスの赦しの眼差し、イエスの励ましの眼差しが今も私たちに注がれている。私たちはそのような愛の眼差しの中に生かされている。そのことを覚えて感謝して、イースターを迎えよう。の後、キリストに従う人生を選んだ。自らの裏切りを悔いながらも、彼は前に進む。かつて、自分は決して裏切ったりはしないと啖呵を切ったペテロに、イエスがかけた言葉がある。ルカ2232「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 イエスはペテロの痛恨の裏切りをあらかじめ知っていたのみならず、ペテロがそこから立ち直り、彼が同じように苦しむ者たちを励ます人間に成長することを見通していたのだ。自らの裏切りに立ちすくむペテロは、すでにイエスの赦しの眼差しの中にいたのである。

 

 立ち直れ、立ち直ったら同じ苦しみの中にいる仲間を助けよ。それがイエスの弟子ペテロに委ねられた使命だった。人生最大の挫折をしたペテロはこのようにして挫折を乗り越えていくのである。そこにはいつもイエスの眼差しがあった。この同じイエスの赦しの眼差し、イエスの励ましの眼差しが今も私たちに注がれている。私たちはそのような愛の眼差しの中に生かされている。そのことを覚えて感謝して、イースターを迎えよう。