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絶望に寄り添う聖書の言葉

2023年3月26日 主日礼拝宣教 

「絶望に寄り添う聖書の言葉」 申命記3178

二千年以上前に書かれた聖書は、大昔の話で、現代の私たちの日常生活とは一見接点がないように思われるかもしれない。しかし、実際に読んでみると、いくつもの光を放つ言葉に出会うことができる。例えば、現代でもよく言われる「神は耐えられない試練を与えない」という言葉。この言葉は新約聖書のコリントの信徒への手紙一1013節にある「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」が、簡略化されて一般に知られるようになったものである。この言葉をどこかで見かけて勇気づけられた人もいるだろう。生きづらい今の時代に、「神は耐えられない試練を与えない」と言われれば、私たちは何とか、その一日を頑張り抜くことができる。

 今、三年も続くコロナ禍で先が見えず、閉塞感に襲われ、またロシアのウクライナ侵攻で心が潰されそうな日々が続く中で、絶望しそうな心を癒してくれる、暗い心に寄り添ってくれる言葉が求められている。聖書の中にはそれらが多くある。今日与えられた申命記の言葉もまさにそうだ。なぜ、聖書の中にそのような言葉が多くあるのだろう。それは一言で言うならば、イスラエルの民たちが歩んだ歴史が、絶望を生き抜いた歴史だからである。

 ここで少しイスラエル民族の歴史を振り返ってみよう。するとそのことがよくわかる。イスラエル民族はもともとどの民族よりも小さくて弱く、神の助けを必要とした民族だった。かつてはエジプトで奴隷のように扱われて虐げられた絶望的な歴史を持っている。その過酷な状況から指導者モーセに率いられてエジプトから脱出し、神の約束の地であるカナンに定住をする。この出来事は出エジプトとして彼らの歴史の中で非常に重要な出来事として記憶され、継承されていく。

やがて王国を形成する。紀元前10世紀のダビデ王、ソロモン王の時代である。しかし、王国はやがて南と北に分裂する。そして、紀元前8世紀に北王国が滅び、残った南王国も紀元前6世紀に滅亡した。神に選ばれたイスラエルの民が国を失う。これは破局的な出来事である。エルサレムは破壊し尽くされ、多くの人々が剣に倒れ、彼らの魂の拠り所であった神殿は破壊され、王国は消滅したのだ。

 こうしてイスラエル民族は世界史から消え去り、かろうじて生き残った人々は捕囚としてバビロニアに強制連行される。これがバビロン捕囚と言われる、彼らにとってはまさに絶望的な出来事だった。彼らは、自分たちが神から見捨てられたと嘆く。しかし、この絶望は終わりではなく、新たな始まりとなる。捕囚の民たちは自分たちの歴史を振り返り、悔い改めへと導かれる。なぜ神の民は滅んだのか、神は自分たちのために何を計画しておられるのか。神に立ち帰るためにはどうしたらよいのか。イスラエルの人々は徹底的に考え抜き、そこに復興への希望を見出す。その時、指導的な役割を果たしたのが預言者と呼ばれる者たちだった。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルたちが有名である。

 彼らは捕囚という絶望を生き抜き、新たに勃興したペルシア帝国のキュロス王によって解放された。この捕囚の帰還民が中心となって神殿が再建され、イスラエル民族はユダヤ教を中心にした信仰共同体としての国を復興させた。ペルシアの後、ギリシア、さらにローマの支配と移っていった。その中で、イスラエル民族は、ユダヤ教の宗教共同体として神殿と律法を二本柱として存続していったのである。

 しかし、紀元一世紀のユダヤ戦争で、イスラエル民族はまたしても悲惨な破局を迎える。エルサレムは再び破壊され、神殿も失われた。それは二千年たった今も再建されていない。有名な嘆きの壁が残るのみ。生き残った人々は世界各地に離散する。彼らはユダヤ教の聖書、旧約聖書のことだが、それのみで生きる決断を余儀なくされる。このように聖書の成立の背景には幾度もの絶望と破局の時代を生き抜いた民族のリアルな現実が反映されているのである。

 今長々と話したイスラエルの歴史の中から生まれた聖書の言葉は、現代を生きる私たちの現実と重なるのではないだろうか。それは、聖書の言葉そのものが、すでに絶望を経験した民に呼びかける言葉として書かれているからである。今日の申命記3178節もまさにそうである。

この言葉は、モーセが、ヨルダン川を渡ろうとするヨシュアを励ますためにかけた言葉である。しかし、この言葉は、ヨシュアの時代以降、はるか後の捕囚期の人々にも読まれ、励ましたことだろう。すべてを失って憔悴し、絶望している捕囚の民たちはこの言葉を聞き取り、励まされ、希望を持つことができたのである。このようにして聖書は幾世代にわたって読み継がれていった。それは、今、民族を超え、時代を超えて、現代の世界中の人々に読み継がれている。

 今をどう生きるかという問いかけに聖書の言葉は答えてくれる。絶望の中にある人々の心に響く。聖書の言葉は私たちに「生きよ」と促す。恐れることはない。主が共にいてくださると励ましてくれる。このように聖書の言葉を読むことのできる恵みを感謝したい。詩篇119105節に「あなたの御言葉は、私の道の光/私の歩みを照らす灯。」とある。絶望だけではない。御言葉は、あなたの道の光であり、あなたの歩みを照らす灯である。ゆえに私たちの人生のすべてにおいて、導いてくださり、希望の光を見させてくださる。私たちの人生に寄り添う聖書の言葉に耳傾けよう。