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捨てることの恵み

3月12日(日)横浜戸塚バプテスト教会での宣教

2023年3月12日主日礼拝宣教(横浜戸塚教会)

「捨てることの恵み」マルコによる福音書1章16-20節                                     

 はじめに自己紹介を兼ねて、私の献身の証をし、そして、今朝与えられた聖書の個所から、ともに教えられたい。

 私は1949(昭和24)、山口県の宇部市で生まれ、高校卒業まで過ごした。私は高校時代、大きな挫折を経験し、底辺をうろうろしている劣等生だった。その後、進学で上京し、大学3年の時、東京の世田谷区にある経堂バプテスト教会でバプテスマを受けた。そして大学卒業後、相模原市の中学に教師として勤め、以来25年間、教師生活を送ってきた。その間、結婚をし、子ども4人の父親に。そして、30年前に自宅近くの相模中央キリスト教会に転会をした。その後しばらくして、主の召しを受け、献身をして西南の神学校に行った。

 私が教師になろうと決心したのは、クリスチャンになってまだ間もない大学4年の春、ある特別講演会で、自分のこれからの人生を教師という仕事に賭けようという思いが与えられたからである。だから私にとって教師という仕事は、生活の糧を得るものでもあるが、なによりも生きがいというか、神さまから示された仕事であった。だから、長い教師生活の間には随分と苦しい思いや嫌なこと、自分には向いてないのではないか、力不足なのではとかいろいろ悩みはしたが、一度も本気でやめようと思ったことはなかった。そして、なによりも25年間の教師生活を振り返ってみて、いつも全力投球で仕事に取り組めたし、手応えもあり、喜びも多くあったことは感謝なことだったと思う。それに自分のやってきた仕事に多少の自負もある。

 しかし、実に不思議なのだが、このように主に与えられ励んできた仕事をあまり抵抗もなく「捨てる」ことができたのだ。未練もないのだ。なぜか?結論から言うと、「主がまず呼びかけられ、召されたからです」としか言いようがない。実に単純なこと。

 今朝与えられたマルコ福音書118節「二人はすぐに網を捨てて従った」とある。ここでの「捨てて」という言葉は、だめだからとか、いやだからといった否定的な意味での「捨てて」ではなく、「残しておく」「置いておく」といった意味も含んでいる。20節の「すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」では「残して」とある。彼ら4人は漁師が嫌だからとか、家庭的に恵まれないから網を捨てたのではない。

 そして、なによりも、ここでは主イエス御自身がはじめに彼らに呼びかけられておられる。「イエスは『私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう。』と言われた。」(17)とある。はじめに主が呼びかけて招いて下さっている。はじめに主の言葉があった。そして、彼らはその言葉に応答したのだ。なにか清水の舞台から飛び降りるような一大決心をしてというニュアンスを私はここからは感じ取れない。マルコはその辺の事情を全くなにも書いていない。書いてないということは、ある意味ではそんなことは重要ではないとも考えられる。

 先ほど私は自分の仕事であった「教師」という仕事を「捨てた」と言ったが、私も彼らと同じく教師が嫌になったとか、駄目だからといった否定的な考えを持っていたからではない。教師という仕事は本当に大変だけれど、すばらしい仕事である。ただ、主が私に呼びかけられたので、それに従う決心をしただけなのである。

 それは私の信仰生活を振り返って見るとよくわかるような気がする。私は信仰生活がスタートしてしばらくは、救われた喜びと若さにまかせて奉仕をしていたが、いつしかつぶやきが多くなり、まわりの者たちを非難することが多くなっていた。そして何年もそのことに気づかない傲慢な私だった。そのような私を主はみ言葉をもって砕いて下さったのだ。その御言葉とは詩編の5119節。口語訳では17節、「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。」

実はこの御言葉は経堂教会の中村牧師が病気で入院された時、急遽宣教の奉仕を依頼されて準備していたときに与えられた。準備していた時は気づかなかったが、この御言葉はまさに宣教を語るべき私自身に向けられたものだった。今でも忘れられない。私は説教しながら、このみ言葉が私自身に突き刺さってくるように迫ってくるのを止められなかった。私自身の傲慢さを強く示されたのだ。私はその場で悔い改めを迫られた。私は講壇で話しをしながら一方内心で主に悔い改めをした。目から涙が出てどうしようもなかった。もう顔も上げられない。この悔い改めの経験はその後の私の信仰生活の基本となっている。

 以上のような様々なことを通して、実に神は忍耐をもって、この欠点だらけの土の器の私を導いて下さった。その感謝な気持ちと主にあって生かされている喜びの信仰、その延長線上に、主からの呼びかけの応答が「神学校へ行って牧師として献身しよう」ということだった。

 主からの呼びかけとは、「収穫は多いが、働き人は少ない。」(マタイ937)であり、このみ言葉が私の心にだんだん迫ってきた。当時、全国には教師になれなくて何年も浪人している学生や若い人たちがいっぱいいた。今はまた事情が違っているが。代わり、スペアーはいくらでもいる。しかし、牧師のスペアーは少ないと聞いていた。もうこの呼びかけに応ずるしかなかったのが実感である。そして、これこそが神のみ業の恵みだと驚きつつ畏れつつ感謝して受け取ったわけである。

 「捨てる」ことといい、「従う」ことといい、自分でしようとしてもそう簡単に出来ることではない。これらは神の恵みの出来事として、生み出されなされていく。主イエスが主役であり、主がまず呼びかけられる。そして常に私たちの前に先立ち歩まれる。主イエスに聞き従い、人生を共にするとき、一切のものから本当に自由にされる。解放される。だから「捨てられ」「従う」ことができるのである。

 

 主はいつも私たちに個人的に呼びかけておられる。恐れず応えよう。そこから今までと全く違う新しい人生、新しい生活、恵みと感謝の生活が始まるのである。