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祈りを待つ神

2023年3月5日 主日礼拝宣教

「祈りを待つ神」ローマの信徒への手紙826

 もともと神を信じるということは、祈りができるようになるということだ。信じている人間にとって、一番具体的な生活は祈りのある生活である。神を信じるということは、祈ることだということは、全く確かなこと。祈りは、神を信じる者の呼吸のようなものだ。人間の肉体は息をしないと生きていけない。同じように、私たちが神さまを信じて、いのちある信仰を生きているのであれば、それはその信仰が息をしているということである。その信仰の呼吸とは、何よりも祈りである。祈らない信仰者はいない。従って、どのようにあるにせよ、どのような言葉によるのであるにせよ、「わたしは祈っている」「わたしたちは祈っている」と言えるようになりたいものである。

 神学者で鎌倉雪ノ下教会の牧師であった加藤常昭先生の「祈り」に関する本に次のような話が載っている。加藤先生が鎌倉雪ノ下教会で牧師をされていた時、時々求道者お茶の会というのを行っていたという。まだ洗礼を受けるには至っていない方たちを招いて、しばらく語り合う会である。そのような会をしていた時に、一人の求道者の女性が次のようなことを話されたという。「加藤先生は良く、祈りなさいと言われる。信仰を得てから、初めて祈れるのだから、求道中は祈らなくてよいというようなことはない。信仰を求め、神を求めるということは、神さま、信じさせてくださいという祈りになる。祈りなくして、求道も成り立たない、と言われた。しかし、どうやって祈ってよいのかわからなかったのです。ところがある時、どうしようもない思いに促されるように、ふと思い切って『神さま』と呼んでみました。そうしたら、言えたのです。『神さま』と呼べたのです」。そのようなことをその女性は加藤先生に話されたそうだ。そう言われると同時に、その女性の目に涙があふれて来たそうだ。加藤先生は、その方のその涙を見ていて、とても感動したと書かれていた。

 私も同じような経験がある。私が初めて神さまと出会って、信仰を持つことができた時のこと。私は大学3年の夏に、長野県の松原湖のキャンプに誘われた。主に学生を対象とした超教派の伝道団体の修養会のようなキャンプだった。信じる気持ちの全くない、求道者でもない私を一生懸命誘ってくれた青年に渋々、根負けして「じゃ、暇つぶしに行こうかな」と思って行ったのだ。キャンプの最終日の夜に各グループがそれぞれ自分たちのコテージに戻って、祈ってから寝ようということになり、みんなで車座になって順番に祈り始めた。さあ私は困った。私は神の存在も信じていないし、信じようという気持ちも全くない。だから、とても祈ることなんかできないと思っていた。先ほどの女性と同じ。「信仰を得てから、初めて祈れるのだから、求道中は祈らなくてよい」、いや祈れないのだ。どう祈っていいのかもわからない。さあ困った。どうしよう。順番は段々と近づいてくる。黙っているわけにもいかない。どうしよう。ここでごまかしたり、自分にうそをつくのも嫌だった。そこで私は思いついた。「神さま、私は神さまをまだ信じることはできません。だから祈れません。イエス様のみ名で祈ります。アーメン」。そう言おうと考えた。そしていよいよ自分の番になったので、思い切って「神さま」と呼んだ。と、その瞬間、私に聖霊が降りたのだ。それが聖霊だということは、後になって分かったことだが。その時、私は幻のうちに神さまと出会ったのだ。本当に不思議な体験だった。「神さま」と呼びかけた瞬間、神さまと出会ったのだ。そして、私は次のように祈っていた。「神さま、私は今まで神さまを信じていませんでしたが、神さまが共にいてくださることを初めて知りました。神さまを信じます。」そう祈っていた。その後、みんなとお休みと言って寝た。横になった私は、目から涙があふれて、同時にうれしくて、なんでうれしいのかもわからず、うれし涙を流していた。

 後になって分かったことだが、この私の「神さま」という祈りの言葉を神さまは忍耐をもって待っていてくださってのだということ。初めに考えた祈りは矛盾した変な祈りだが、必死になって神さまに向き合っていたことは確かである。そのことを神さまはご存じだったのだ。私に聖霊を送ってくださって、悔い改めに導いてくださったのである。

 今日の聖書個所にあるように、神さまは、弱い私を助けてくださって、どう祈っていいかわからない私を、聖霊自ら切なるうめきをもって、私のためにとりなしてくださったと信じている。私だけではなく、どう祈ってよいかわからないと思うことが時にあるのが、私たちの本当の姿ではないだろうか。その弱さを神さまはよく知っておられる。私たちよりも、そのことを真剣に問題にしておられる。そして神ご自身に他ならない聖霊が、そのことを悲しんでいてくださる。言葉にならないうめきをもって、苦しみ、悲しみ、とりなしていてくださる。聖霊自らが言葉を持たず、うめいておられるだけなのだ。そのうめきによって、私たちは支えられている。

 

 ここに私たちの解き放たれるところがある。祈りを思うとき、私たちの心を縛り付けていた何かが解き放たれるのだ。立派な祈りをしなくてはならないとか、これではまだ祈りになっていないとか、祈りに伴う実感がないなど、様々な心を縮こまらせ、縛り付けているものから解き放たれるのだ。聖霊自ら、私たちと共にいてくださり、とりなしてくださるのだ。そのことを覚えて、感謝して、祈っていこう。その祈りを神さまは待っていてくださる。