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祈りの中の沈黙

2023年2月26日 主日礼拝宣教

 「祈りの中の沈黙」 詩篇6219

 祈りは神との対話。こちらから話すこともあるが、時として神からの言葉を聞くときでもある。だから、祈りというものは、すべて始めから終わりまで自分がしゃべり続けることではない。祈りにおいていつもわきまえておかなければならないのは、神の言葉を聞く姿勢を造るということだ。口で言えば簡単そうに思えるが、これは案外難しい。たとえば黙禱をしていても、それが、口が動いていなくても、心の中でしゃべり続けているならば、それは同じこと。

 詩篇62編の詩人はこう言っている。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」(12)。このみ言葉は私に常にチャレンジを与え、かつ励まされるみ言葉である。このみ言葉がわたしの生活の中で、どんなに大きな力を持ってきたことかと思う。私たち人間は、苦しい時、つらい時、悲しい時、不思議なことに、ずいぶんおしゃべりになるものだ。ただそれは、ある相手に対して文句を言い続けるというようなものではない。むしろ、他人に対しては、無口になるのかもしれない。しかし、誰に対しても口数が少なくなったということは、かえって、その内心において自分自身に向かってしゃべり続けているということがあるものだ。言い訳があり、他人への非難があり、悔いがあり、そうした様々な思いを呟き続けている。それは祈りにもならない。そうなれば、むしろこの詩編のみ言葉の反対だろう。「わたしの魂は沈黙し、ただ神に向かう」どころではない。わが魂は沈黙せず、しゃべり続け、神に向かうこともなくなる。もう神を信頼することもなく、むしろイライラしてしまう。何かに対して腹を立ててしまったりする。そういう時に、この詩編の御言葉が語りかけてくれる。それではダメではないか、沈黙することを学ばなければならない。今こそ、知るべきことは黙ることなのだ、と語りかけてくる。これはチャレンジであり、同時に励ましである。

 この62編の詩人の「沈黙」は信頼に満ちている。神が語ってくださるのを待つのである。口語訳聖書では「わが魂はもだしてただ神を待つ」と訳されている。どんなに動揺しても、自分が「いたく動かされる」ことはないと知るところから生まれる沈黙である。

 続けて、詩人は45節で、自分に襲い掛かってくる災難、たくらみについて次のように言っている。「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり、人を倒れる壁、崩れる石垣とし、人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして、口先で祝福し、腹の底で呪う」。そして、この後ですぐ、次の御言葉が続く。23節と同じような内容の言葉が並ぶ。「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。私は動揺しない。わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神の信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ」。

 この沈黙は心を注ぎ出す沈黙。待つことに集中する。この沈黙は神に向かって心を注いでいる。神に向かって心を開いている。硬くなった心が生む沈黙ではなく、心を柔らかにする沈黙。心の鍵を神の御腕に委ねるような心である。この沈黙は、マタイ福音書68節「 あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」という主の約束を信じ切っているところから生まれる沈黙である。

この詩編62編の御言葉は、弱く欠けだらけで疑い深い私たちにチャレンジを促す。同時に励ましの御言葉となる。このように、御言葉に生かされつつ歩むことのできる信仰の恵みに感謝である。

昔から教会の歴史の中で沈黙の祈りが重んじられてきた。この詩編62編のいう沈黙の祈りというのは、口に出して祈っていようが、黙々と祈っていようが、その私たちの祈りの言葉が中断し、真実の意味で黙ってしまうことがある。それは、私たちの側から言えば、空しくなること。空っぽになることである。しかし実は、それは空しいどころか、むしろこれは、充実した沈黙である。人間の言葉が満たすのではなく、神の言葉に満たされる沈黙なのである。それは信頼に満ちて、動かない思いで、神にすべてを明け渡す沈黙である。この時、祈りが満たされるのである。

 

「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」これは、私たちの祈りの心に深く刻みつけるべき喜びの御言葉である。