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十戒は愛のしるし

2023年1月22日 主日礼拝宣教

「十戒は愛のしるし」出エジプト記20章1-17節

 「十戒」と聞くと、我々年配者は、すぐチャールトン・ヘストン主演の映画『十戒』を思い起こす。あの映画の主人公は旧約聖書の「出エジプト記」に登場する人物、モーセ。そのモーセが神さまから受け取った「10のルール」が十戒である。聖書には、特に旧約聖書には神さまが人々に命じた様々な律法、すなわちルールが登場する。そのルールである律法の基礎になっているのがこの十戒である。これは現在でもクリスチャンの生き方における土台として、大切なものとされている。だから、この十戒の本質をよく理解しておくと、聖書のいう思想や考え方の基本がより深く理解できる。

 今日は一つ一つの律法について詳しく見ていくことはできないが、そもそもどうして神さまはモーセを通して人間にこの10のルールを与えたかを考えてみたいと思う。ルールというのは約束とも言い換えられるが、この地球上で「約束」という概念を持っている生き物は人間だけ。これは人間が神さまにとって特別な存在であることを示している。

 約束というものは、私たちだって信用できる相手としかしない。神さまが私たち人間に10のルール、約束を与えられたというのは、人間を信用しているということでもある。

しかし、一方で人間はこの約束を往々にして破ってしまう。アダムとイブは「あの実だけは食べてはいけない」というたった一つの約束さえ守ることはできなかった。聖書は、これによって人類は堕落した生活を生きる存在としてとらえている。この人類最初の罪がいわゆる「原罪」。確かに聖書に書かれているように人間はあまりにも約束を破る存在である。新約聖書の時代の伝道者パウロも次のように書いている。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ715)。さらに次のように言っている。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ71920)。パウロはこのように罪を理解している。

にもかかわらず、私たち人間をどこまでも信用して約束をしてくださる神さま。その神さまとはどういうお方なのだろうか。

2節に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」とある。10の約束をする前にこう宣言されている。そして、第1の戒め、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と続く。この「あなたには、……ならない」と禁止の命令にように訳されているが、これは他の神々の存在そのものを否定する発言ではなく、奴隷の家から解放されたという恩恵を歴史において経験したイスラエルが、ヤハウェ以外の神と関係を持つことはありえないという意味を含んでいる。どこまでもイスラエルの民を愛し、期待し、信頼を置いているがゆえに約束された言葉なのである。「信用」しているがゆえにされた約束なのである。あなた方がエジプトで奴隷として過酷な労働、生活を強いられて、悲痛な叫びをあげ、訴えるのを見て、聞いて、知って、そして深く憐み、救いの手を差し出したのはこの私であり、その私はあなたの主、あなたの神ではないかということである。だから、この十戒というルールは、神さまが人間を縛りつけるためにつくったルールではなく、むしろ解放するためにつくったルールなのである。解放って何から?それは罪、すなわち「的外れ」な生き方から。この第一戒に限らず十戒すべて、いや聖書に記されているルールすべてに言えることだが、神さまが与えるルールは決して人間を縛りつけるためのものではなく、的外れな生き方、それに伴う悩みや苦しみから人間を解放するためのものなのである。

 

罪のゆえに自分でも背負いきれない重荷を負って生きている私たちに、主イエスは言われた。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ1128)。慈しみに富む、愛のお方であるということ。その愛の神があなた方を救い出したのだから、あなた方はもう私以外の神々を礼拝することはないよね、と言って、どこまでも私たちを信用しようとされる神なのである。相手に対して愛がなければできない約束である。愛するがゆえに約束されるのである。それに対して私たちになすべきことは、精いっぱいその愛に応えた生き方をすることなのではないだろうか。