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天に宝を蓄えよ

2023年11月15日 主日礼拝宣教

「天に宝を蓄えよ」 マタイによる福音書6章19ー21節

人生は勘定の合わないことが多い。三浦綾子さんの『小さな郵便車』(角川文庫1991)という本がある。人生相談の回答を14篇、まとめたもの。 その中に「継母ゆえに子にそむかれた」方からの相談があり、三浦さんは次のように励ましている。「いつかわかってくれます。その日を待ってください」と書かれていて、続けて「結果的にはどうであっても、わたしたちは、人のために為し得たことを、感謝すべきではないでしょうか。人に喜ばれると思ってしたことが、裏目に出るのが、とかく人生なのですから。」と感謝の気持ちの大切さを伝えておられる。

 その回答に「人生は勘定の合わないことが多い」と書かれていて、「でも、わたしたちは、自分に返ってくるものが少ないからといって、それなら、不真実に生きればいい、と思うでしょうか。もっとでたらめに生きればよかったと思うでしょうか。……多分そうではありますまい。」と、要は生き方の問題だと言われている。確かに私たちはそろばん勘定だけで判断し行動しているわけではない。良心や善意といった性質も合わせ持っている。

 さらに三浦さんは自分の体験を語りながら次のようにキリスト者らしい感想を述べておられる。「わたしは小さな者で、それほど人様のために生きている者ではありませんが、それでも自分なりに精一杯に、他の人に尽くしたことが幾度かあります。しかし、して上げたことで、かえって相手から誤解され、恨まれたり、他の人から笑われたり、……いわばさんざんな目に遭ったことが幾度かあります。……しかしそんな時、十のことをして、十の返しがあるとすれば、それは人にして上げたことにならないような気がするのです。充分なお返しがあれば、勘定だけはきっちり合いますが、それだけ神さまにほめていただく分がなくなるような気がするのです。むろんほめられるためにするわけではありませんけれど。」このように書かれている。

 今日の聖書個所に「富は、天に積みなさい」とある。口語訳聖書では「天に宝を蓄えなさい」(マタイ620口語訳)と訳されている。天国銀行では、勘定が合うどころかたくさんの利子(恵み、祝福)がついていることだろう。

さて、この「天に宝を蓄えなさい」だが、これはユダヤ教でもこの地上ではなく、天に宝を蓄えるような生き方をせよと説かれている。ただし、イエスがここで説いている宝とは比喩的な表現であり、信仰上のもので、財産のみを指すものではない。

 人に見せるための行為は、それがどのような善行であっても、地上の宝に過ぎない。宝が他者からの評価によって成立するのと同じように、他者からの評価を基準にして生きることはむなしいとイエスは考える。人間の評価は不安定で、相対的で、また後に、より優れた業績をあげる人が現れると、以前の人たちは忘れ去られてしまうだろう。

 むしろ他人にどう評価されるかなどということについては考えずに、神による絶対的な評価を気にかけて生きることをイエスは説いている。天に宝を蓄えるというのは、神中心に、神第一に生きるということである。この世の中で正義を行うことも、世間から賞賛を受けるためではなく、天に宝を蓄えるためなのである。だから、私たちはいつも神と向き合って、神は何を私たちに望んでおられるだろうか、どんなことを喜んでくださるだろうか、と考えながら生きていくことが求められている。神中心、神第一の生き方。まず神の国と神の義を求めなさいに通じる生き方である。

 そして、最後に「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(21)とイエスは言われる。私はこれを読むたびに、私の心を見透かされているように思う。あなたの富のあるところはこの地上ですか、天上ですか、と問われているように思われるからである。そして、そこにあなたの心、本心があるのだとズバリ言われるのが胸に突き刺さる。要するに、なんだかんだ言っても、結局はこの地上の富、宝に目がくらみ、心奪われているのではないか、と問われている気がするのである。

 

「富は、天に積みなさい」「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」。このみ言葉を神からのチャレンジだと受け止めている。だから、神中心、神第一の信仰生活を精いっぱい生きていこうと、いつも励まされるのだ。