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出来事となった神の言葉

2022年12月25日クリスマス礼拝宣教

「出来事となった神の言葉」ルカによる福音書2章8~21節

 メシアの誕生は最初に羊飼いたちに告げられた。神殿の大祭司や祭司、宮殿の王侯貴族たちではなかった。羊飼いたちは仕事上、町には住まないで、いつも荒野や草原などを移動していたから、住民登録の必要もなく、よって納税の対象でもなかった。要は住民として数えられていなかったということ。その意味で、羊飼いたちは周辺に追いやられた者、いと小さき者、貧しき者の代表といってもいいだろう。そのような羊飼いを神の使いは選んだのだ。神の選びは不思議な、そして神の自由な選択である。社会的な地位や宗教的身分の高さゆえに、神の選びがあるわけではないし、逆に弱さや貧しさの故に、神が選んだのでもない。強さも弱さも選びの条件ではない。それはあくまで神の自由な選択である。しかし、これが不思議なことだが、神は弱い者、貧しい者、いと小さき者である羊飼いを選んだのである。この不思議さは人間の判断によって合理化されて説明されてはならない。そのまま受け入れるしかない。しかし、この事実は私たちにとって、なんという慰め、また励ましではないだろうか。

 今朝の聖書個所では、羊飼いたちに大きな喜びを伝えるために御使いが「近づき」(9節)と記されている。「近づき」だから、遠くの空中に天使がいるのではない。文字通りには「近くに立つ」という意味。だから、羊飼いたちはこの喜びの知らせを遠くに聞くのではなく、まさにその知らせにぶつかるように出会うのである。大きな喜びが羊飼いたちにぶつかってくるのである。この言葉には「アタックする」という意味もある。この知らせに圧倒され、何より突き動かされる。じっとしていられないほど。羊飼いたちの反応がそれを示している。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(2:15)。御使いの知らせにぶつかって、じっとしていられない羊飼いたちは主イエスが生まれた家畜小屋の飼葉桶へと急ぐ。 

 ところで、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(2:15)という、この「出来事」と訳されている言葉だが、丁寧に言うと、「実際に出来事として起こった言葉」である。出来事となった神の言葉である。この福音書を書いたルカが第2巻として書いた使徒言行録で、ペテロがこんな言葉を語っている。「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です」(10:36-37)。神からすべての人に与えられた平和のメッセージは、イエス・キリストによって伝えられたが、実はまた一つの出来事であった。ペテロはそのように言って、さらに、主イエスが人々を愛して生き、十字架につけられて殺され、よみがえられた出来事を語る。主イエス・キリストこそ、出来事となった神の言葉である。羊飼いたち、そして私たちは、クリスマスにこの出来事にあずかるのである。

 

 クリスマスこそ平和を告げる神の言葉である。平和のメッセージである。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(214)。この神の御言葉が出来事となっていく。イエス・キリストを通して、神の言葉が出来事となっていくのである。クリスマスにこの出来事に与る私たちは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰を通して、平和のメッセージを受け取り、そして平和のために働く者へと突き動かされていく。主の平和にために祈りを合わせよう。