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インマヌエル-神は共にいます-

2022年12月24日 イブ礼拝宣教

「インマヌエル-神は共にいます-」マタイによる福音書1章18~25節

 世の中は、クリスマスの時期になると、パーティーだ、プレゼントだ、またクリスマスツリーだといって、にぎやかに過ごしている。最近ではイルミネーションで華やかに飾り付けたりしている。商売ではクリスマスに便乗したセールもしている。それらが悪いとか、いけないとか言うつもりはない。大いに楽しんだらよいと思う。しかし、一方で世界に目をやるとウクライナやミャンマーなど戦争や弾圧によって、命や自由や人権を奪われたり、貧困や飢餓で苦しんでいる大勢の人々がいる。そのことも忘れないでほしいと思う。祈っていきたい。もう一つ、気になることがある。それはクリスマスはサンタさんの誕生日かと思うほどにサンタさんばかり登場して、どこにもイエスとかキリストが登場しないことである。せめて、クリスマスは、イエス・キリストの誕生日をお祝いする日だということぐらいは知ってほしいものである。もっと言うならば、クリスマスの本当の意味は何なのかをぜひ知ってほしいと、教会の牧師としては願うところである。

 今夜はそのことについてお話をしたい。聖書のいう神とは何か。一言でいうと「神は愛です」。「愛」と言われてもそれは非常に抽象的で、神の何が愛なのか、どんな行為が愛なのか、その具体的な行為とかあり方がはっきり示されないとわからない。そのことが端的に書かれているのが、ヨハネ316、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」神から私たちに愛する独り子イエスをプレゼントしてくださったということがクリスマス。イエスの誕生なのである。

このように神は私たちと関係のないところに隠れてはおられない。無関心ではおられない。神は私たちと関係を持とうとされる。そのため独り子イエスを私たちのために贈ってくださった。イエスは神の子でありながら、私たちと同じ人間としてお生まれになった。そして、私たちと共にいて、共に歩んでくださった。それは神の愛の行為。私たちが神の方に接近して共にいるようになったとか、呪術的な儀礼によって神を引き寄せた、というのではない。神の方から私たちのところに来て下さるという、神の愛の行為である。その行為こそ、神の独り子イエス・キリストの誕生である。だから、これら誕生の出来事一切は神から告げられることによって起こっていく。「神われらと共に」とは神の真実な愛の行為であり、イエス・キリストにおいて起こった行為である。

 このイエスの誕生に際して、イザヤの預言が引用されている。23節に「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

名は体を表すと言われる。インマヌエルとは「神は共にいます」という意味だから、救い主は天高くいますお方ではなくて、この地上に私たちと共にいてくださるということである。この救い主の姿は、クリスマスにおいて始まり、世の終わりに至るまでも変わりないことを、このマタイ福音書では最後の最後の2820節で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ2820)と主イエスが弟子を派遣される際の言葉の中に表明される場面を書き残している。主が共にいてくださることを信じる信仰ほど、人に勇気と慰めを与えるものはない。

究極の隣人援助は、「共にいる」ことであるとカウンセリングの世界で言われる。人が危機の最中にいればいるほど、共にいてくれる人の存在が重要な意味を持つ。危機を経験した人なら、なまじっか気の利いた言葉を聞くより、だれかが傍らにいてくれるだけで慰めを得、勇気が湧いてきたことを知っているはず。

救い主は、いついかなる時も共にいてくださることを信じるなら、前途暗澹たる思いに佇む時も決してそのまま捨て置かれることはないとの確信がもてる。生きる勇気と励ましと慰めをいただくことができる。

 

インマヌエルの主イエスの誕生を心から待ち望みつつ、感謝をもってクリスマスを迎えよう。