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縦糸と横糸

2022年12月11日 主日礼拝宣教

「縦糸と横糸」マタイによる福音書22章34-40節

新型コロナの世界的規模の感染拡大、急速な地球温暖化、少子高齢化、AI(人工知能)の発達、格差拡大、人間関係の希薄化など、実に私たちを取り巻く環境は大きく、そして急速に変化してきている。企業はもとより学校、行政などもその変化に対応したあり方を必死に模索し、実践をしている。

ある広報誌に載っていたが、京都にある300年も続く老舗の西陣織の経営者は、今では着物だけではなく、欧米の高級車の内装に使われる織物を手がけているそうだ。そして、その経営者は次のように語っている。改革を進めるときに、縦糸がぶれなければよい。その縦糸とは、伝統、経営理念であり、横糸を時代や状況に合わせて変化させていくことが大切であると。とても示唆に富んだ話だ。

教会はどうだろう。社会の急速な変化に対応する改革を進めているだろうか。進めるとしたらどのように、また何をしたらよいのか。考えさせられる。そしてすぐ思いついたのが、今日の聖書個所。教会の縦糸は神との関係で、横糸は人間社会との関係。その具体的な教えが、今日の聖書個所の戒め。「神を愛し、隣人を愛せよ」との大切な教えである。神を愛する信仰はぶれることなく、隣人を愛するあり方は時代に即して変化していくし、変化が求められるのではないか。

そこで、今日改めて、その大切な教えについて、見ていきたいと思う。第一の掟、「主なるあなたの神を愛せよ」というのは、ユダヤ教の大原則。ただし、主イエスにおいては律法を遵守することによってではなく、「心をつくし」「精神をつくし」「思いをつくして」、すなわち、全人格的に神を愛せよと説いている。当時、このような、一人ひとりの信者の人格を重視するという視座は、ユダヤ教においては大変希薄であった。ユダヤ教とキリスト教の、神と人間に関する違いが端的に表れている個所である。神を愛する、という内実、そのあり様が一人一人に問われるというわけだ。個の信仰が問われるわけである。

たとえば、多くの日本人は、うちの家は浄土真宗の檀家だから、葬式はお坊さんを呼ぶとか、家に仏壇があるから、クリスチャンにはなれませんとか、全く個の信仰、自分自身の信仰のあり方、もっと言うならば自分の人生の生き方、あり方に正面から向き合おうとしない。表面的な付き合いで終わっている。当時の多くのユダヤ人も同じで、ユダヤ人だから当然ユダヤ教で、ユダヤ教では律法を学び、守るのは当然でそう教えられている。だから、神を愛するという教えは耳タコで、当然、神を愛するものだし、愛していると勝手に思っているところがある。そこへ、主イエスは、一人ひとりに、どれだけ、そしてどのようにして「心をつくし」「精神をつくし」「思いをつくして」、神を愛しているかと問い返しているわけだ。それは、私たちにも同じように問いかけられてもいる。

次に二つ目の教えであるが、ここで重要なのは、主イエスが「無条件で隣人を愛せ」という類の博愛を説いてはいないということ。主イエスが具体的に、「自分を愛するように」と説いていることがポイントである。キリスト教は自己愛を重視する。意外と思われるかもしれないが、裏返して言うならば、自分を愛することができない人は、隣人を愛することもできない、ということである。

 このような自己愛が崩壊している事例の一つにストーカーがある。ストーカーは、相手を過剰に愛しているように見えるが、実際は相手を自分の思い通りに操縦することができないと、自分が崩壊してしまうと焦っているのだ。自分のために相手を徹底的に搾取、収奪することしか考えていない。従って、相手が逃げ出すと、意のままに操ることができなくなるので、ストーカー行為を始め、最悪の場合は相手を殺害したりする。

 まっとうな自己愛を持っていない人が、他者との関係を構築しようとすると大変な悲劇が生じる場合がある。自己愛を大切にしながら、隣人を自分のように愛することが重要なのである。

 聖書の言う「自分を愛する」ということは言い換えると、自分を大切にするということ。自己保身や自己満足のための自己愛ではない。だから、「隣人を自分のように」ということのポイントは、いかに隣人と「共感」できるか、その「共感力」が問われる。そこに共に生きる関係、共に生きる社会を作り上げていくポイントがあるように思う。

 

最後に話を最初に戻すと、私たちの信仰の縦糸は神との関係、そして横糸は人間社会との関係だる。その具体的な教えが、今日の聖書個所の戒めである。「神を愛し、隣人を愛せよ」との大切な教えである。神を愛する信仰はぶれることなく、隣人を愛するあり方は時代に即して柔軟に変化させていくことが大切である。どのような教会を立て上げていくのか、どのように自分の信仰生活を成長させていくのか、また幻を祈り求める時、大切な視点である。愛の縦糸と横糸を織りなして、神の愛の福音を証していこう。