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主の手で裂かれたパン

2022年12月4日 主日礼拝宣教

「主の手で裂かれたパン」マルコ福音書6章30-44節

 パン5つと魚2匹で5千人が養われたという奇跡物語は、福音書の全てに書かれているので、重要な意味を持つ出来事であったと想像できる。しかし、この出来事は奇跡である以上に、イエスとは誰であるかを意味していることに気づかされる。

今日の物語は、宣教活動から帰って来た弟子たちの報告から始まる。弟子たちは皆、疲れを覚え、空腹だった。ところが「人里離れた所へ行って」休もうとする弟子たちを放っておかない群集がいた(32‐33)。この時の弟子たちの心境は、疲れ果てていて、他人のことまで面倒を見切れない、自分のことで精一杯という気分だったであろう。しかし、彼らを追いかけて押し迫る人々が、あらゆる町々から集まって来る。求めつつも、その願いをもって行くところを知らない人々が、こんなにも多くいたという現実がある。主イエスはこの群集を見て、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれる(34)。新共同訳では「深く憐れむ」と訳されているが、岩波訳では「腸(はらわた)のちぎれる想い」と訳されている。「断腸の思い」である。さらに彼らは「飼い主のいない羊のような有様」と表現されている。飼い主(羊飼い)がいなければ羊の群れは大混乱に見舞われ、滅ぶしかない、という状況だったのだ。

そこで主イエスは、この群集への真の牧者として、まず「教え」られる(34)。次には食物をもって具体的に彼らを養うことを決意された。主イエスは、弟子たちの「この群集を解散させてめいめいで何か食べるものを買いに行かせる」という提案に賛同されなかった。群集こそ、自分の物を手に入れるために競争を強いられ、この社会で疲れはて、はじき出された者たちだったからである。この「飼い主のいない羊」をこのまま解散させたなら、「途中で疲れきってしまう」(83)に違いないことを主イエスはご存知であるゆえに心配されたのだ。

主イエスはこの群集のために、自分たちこそ空腹で疲労しているとでも言いたいところの弟子たちを、奉仕へと呼び出す。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37)。主イエスは、弟子たちを用いることで、ご自身の「牧者」としての業を実現なさるのである。

弟子たちのもとに「あったもの」を、主イエスは手に取って祝福して裂かれる。弟子の営みは、主イエスの手で一度「裂かれる」(割る、壊す)体験を経て人々に行き渡るのである。それによってこそ、豊かな奇跡が生じるのである。主イエスは、弟子たちの「休息」を裂き、「不可能の予測」をも裂き、ただ「奉仕する者」へと導き出される。自分の所持していたパンを分けて食べること自体、自らへの大きなチャレンジであった。空腹であった弟子たちが、持参していたパンを5千人を眺め回しながら「焼け石に水」のような気持ちで差し出す際の複雑な表情を思わず想像してしまう。しかし、それらは私たちがよくする表情ではないだろうか。しかし、そこでおつりが出るほどの豊かな神の奇跡を見ることになるのである。なぜなら、それらが主イエスの手によって裂かれ、祝福が与えられるからである。これは祭司としてのイエスの姿である。大祭司イエスである。

 

教会において営まれる「主の晩餐」も、弟子の働きを再決心する場として重要な、「主の食卓の場」なのかもしれない。群集にパンを配るために、主イエスからパンをいただいて派遣される瞬間として、これを理解することが出来るだろう。主の晩餐に与る私たちもまた、「あるもの」を主の前にゆだね、「裂かれる」ことによって祝福を受ける。その愛の祝福をいただいて、それを分かち合うものとして、遣わされていく。これが主の弟子としての私たちに求められることではないだろうか。クリスマスの時期である。神の愛を分かち合う時として過ごしたいと思う。