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誰と共に生きるのか

2022年11月27日主日礼拝宣教

 「だれと共に生きるのか」申命記241922

 暦は今週半ばから12月を迎える。刈り入れの秋は終わった。今年も多くの自然の恵みをいただいている。神の恵みとして、感謝していただきたい。

教会の庭の柿の木は、今年は残念ながら豊かな実りをもたらさなかった。柿の木は成り年と不成り年があると聞いているので、今年は実の成らない年なのだろう。いずれにしても何の手入れもしないのに、おいしい柿の実をいただいていると申し訳ない気持ちになる。誰に対して申し訳ないのだろうか、とふと思ったりする。大地の恵みに感謝して、精一杯、神にお返ししたいと思う。

 柿を収穫する時、全部取らないで、3,4つ程度、柿の実を残すそうだ。すべて取りつくさない。それは餌の少ない冬場に鳥たちの食物になる。それを「残り柿」という。このような心やさしい風習があることを知ったのは大学生の時だった。

 大学の恩師、古田拡先生(児童文学者、国文学者)の中学教科書にも載った随筆『残り柿』を学んだ時だった。その随筆は、四国の寒村(古田先生の故郷)の晩秋の風景がつづられていて、村の人々が自分たちのひもじさを我慢しながらも、鳥たちのために柿の実を残す風習がつづられていた。都会育ちの私には鳥のことなどに思いはいたらない。実ったものは全部収穫するのが当然と考えていたので、そのような心貧しい、想像力の欠けた自分が恥ずかしくなったことを覚えている。

 クリスチャンになって、聖書を読むようになり、同じようなことが聖書にも書かれていることを知った。レビ記199-10や申命記24:19-22に書かれている。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」(レビ記199-10、申命記24:19-22参照)

 いわゆる落ち穂拾いの規定である。収穫物の一部を寄留者、孤児、寡婦と分かち合うべきであったのだ。これら三者は農地を持てず、生活上不利であった。古代社会なりの一種の社会保障である。その動機は、出エジプトという自分たちの過去の歴史である救済史の出来事であった(申命記2422)。さらに、この規定には、土地は神のものであり、土地所有者も土地を持たない貧しい者も共に神の恵みに与るべき、という思想がある。共に生きるという原点である。この土地を命と置き換えるともっとよくわかる。命は神から与えられたものであり、私もあなたも同じ命を生きるものであるゆえに、ともに神の恵みに与るべき存在だという考えであり。

 だから、イスラエルの共同体は、弱い立場にある者を保護するのは隣人への大きな愛であって、そうすることによって共同体全体が恵みをうけるとした。この規定は、土地を持たない貧乏な人が飢えることなく過ごすことを目的にしたものである。

ひるがえって現代社会は弱肉強食、優勝劣敗の世界。このルールが社会に跋扈するときは、相手を打ち負かすための競争をしなければならない。競争社会。そうなれば人間関係はますます差別化が激しくなる。勝ち組と負け組。差別だけではなく、格差社会を生み出づ。そういう社会では、自分の責任でなく弱者として生きねばならない者、生まれつき能力が及ばない者は、落ちこぼれる以外に道はないことになる。最近言われている嫌な言葉「親ガチャ」もそのことを端的に言い表している。

 その点では、キリスト教会は、今日の落穂拾いの規定をはじめとした、神を愛し、隣人を愛しなさいという聖書の精神を汲んで、昔から教育、福祉、医療、そして最近では心理臨床(カウンセリングなどの相談活動)の働きまで及んで、弱い者と共に生きる社会の形成を目指してきた。同時に、これは教会に繋がるキリスト者一人一人に通じる優しさの奉仕の精神の表れである。譲る、思いやる、もてなす、いたわる、これらは現在社会が求める優しさである。このような優しさをほんの少しでも分かち合うことができれば、どれほど社会を潤すことか、優しさをもらった者はよく知っている。誰と共に生きるか。答えはおのずから示されることだろう。