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愛はつながる

2022年11月13日 逗子第一教会 召天者記念礼拝宣教 杉野省治

「愛はつながる」 ローマの信徒への手紙13章8-10節

 ご先祖の墓を守る人がいなくて「墓じまい」をする人が増えたというが、今度は「仏壇じまい」をする人も増えてきたという。仏壇じまいの理由はやはり継承者がいないということと置く場所がないということだ。しかし、仏壇がなくなっても故人とのつながりを持ちたいと考えている人も多い。そのために写真を飾ったり、手元供養をするために少量の遺髪や遺骨をペンダントトップに納めたりして、故人とのつながりを大切にしている。やはりつながりは持ちたいという思いは誰にでもあるのだなと思わされる。

 教会ではどうだろうか。今日は年に一回の召天者記念礼拝。私たちの信仰の先輩である故人を想い起しつつ、神さまが故人を通してなされた数々の恵みの働きに感謝し、併せて遺族の方々の慰めと平安を祈る礼拝である。大切にしたいと思う。しかし、よく考えてみると実は年に一回だけの召天者を覚えての礼拝ではない。礼拝とは毎回、天上で行われている礼拝とつながって、この地上でも同じ神さまを礼拝しているのだ。日頃はそのような思いを持つことは少ないのだが、実はそうなのだ。イエス・キリストを通して、つながっているのである。一言でいえば、すでに天に召された人も天において神さまと共にいて愛されて礼拝している。ヨハネの黙示録にその様子が詳しく書かれている。同じように私たちも神さまが共にいてくださり、神に愛されて礼拝している。神さまの愛によってつながっているのである。

 そこで、つながりと愛について、聖書から学んでみよう。パウロは10節で「愛は律法を全うする」と言い、他者を愛することがどれほど大きな意味を持つかを強調している。もともと律法は、他者との関係にいくつかの「~するな」との戒めを持っている。パウロはここ9節で「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」などを取り上げている。それらの「~するな」に対して、愛は「~しなさい」と結ぶ、肯定的な前向きの戒めである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」を肯定的に前向きに捉え直せば、「隣人を愛しなさい」と一つになる。その意味を捉えて、パウロは、「愛は律法を全うする」と言っている。

しかし、「愛する」ことは義務ではない。「だれに対しても借りがあってはなりません」とはその意味。「愛する」とは、結果として温かい他者との関係を作り上げるもの。もし義務で他者を愛するなら、冷たい人間関係が残るだけだろう。

 マザー・テレサは「愛情の反対は、憎しみではなく『無関心』」と言っていたが、本当に無視されることほど、人間の尊厳が大きく傷つくことはない。『そんなの、関係ねえ』というフレーズが10年以上昔はやったが、現代の日本人は自ら関係を絶つことを望むような傾向にあるように思われる。隣近所の付き合いからはじまって、地域のつながり、職場の付き合い、親戚との付き合い、友だちとの付き合い、様々な付き合いをわずらわしいものと思うような傾向がないだろうか。そのようにして自ら関係を絶っていくことによって、ますます孤立感を深め、人間不信を増長させ、さらに自分自身をも傷つけていく。そのようにして最後は自己否定へと陥ってしまうということになってはいないだろうか。最近増える傾向にある、「死にたかった。だから、だれでもよかった」という殺人容疑者の供述はそのことを物語っているようだ。関係性の喪失の悲劇である。

 先ほど「愛する」とは、結果として温かい他者との関係を作りあげることだと言った。その「温かい他者との関係」がつながりであり、そこに信頼関係が生まれ、マザー・テレサのいう「無関心」とは反対の「愛情」が生まれ、関係性が構築されていくのである。 

そして、その「つながり」は内向きではなく、外向きの「つながり」でなければならない。外に開かれていなければならない。教会も同様である。教会も基本的には地域につながることが求められている。開かれた教会とは、地域と開かれた関係性をつくっていくことである。何でつながるのか?お金でつながる。そんなお金は教会には残念ながらない。教会にあるのは「愛」。神の愛。愛のつながりである。地域に仕える教会として、愛のつながりをつくることが求められている。

 

最後に、カトリックの信者だった元国連難民高等弁務官の緒方貞子さんの言葉を紹介する。「難民問題は私の高等弁務官時代より量・質ともにより深刻になっている。重要なことは苦しんでいる人々に関心を持ち、思いを寄せ、行動をとることだ。人々が互いを思いやることこそが、人間の最も人間らしいところだと思う」(「朝日地球会議2016」)。