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生きよ

2022年11月6日 主日礼拝宣教

「生きよ」 エゼキエル書16章4‐6節

預言者エゼキエルは、エルサレムに象徴されるイスラエルの民の罪を昔にまでさかのぼって、白日の下に暴き立て裁かれる神は、同時に決して彼らを見捨てることのないお方であることを告げる。彼の預言は、バビロン捕囚の苦しみは、かつて住んでいたエルサレムを懐かしく思い出させるのではなく、かえって彼らの犯した罪とそれにもかかわらず見捨てることなく見守ってくださるお方に対する信仰を呼び起こす。

この16章は、古い昔、エルサレムは野に捨てられた存在であって、主であるお方とは無縁の存在であったのに(165)、神はその傍らを通り過ぎられる時、「(血まみれのお前に)生きよ」(166)と声をかけられたのであると託宣の言葉を語る。生々しい神との出会いのさまである。その後、神はエルサレムを美しい娘にまで育てたのに(16913)、彼女は姦淫の罪を犯し(1615)、今やその責めを負っているのだ(1658)と言われる。にもかかわらず神は、「わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる」(1660)と言われる。この16章には、いったん信仰者として「生きる」ことを得た者は、この永遠の契約に生きる者であることのメッセージが語られている。

さて今日与えられた16章のみ言葉にこういう言葉がある。「わたしはお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見た」(6節)。この言葉は、遠い異教の国バビロニアに捕囚となって連れていかれたユダヤの人たちに告げられた主の言葉であると同時に、今も私たちに向かって語られている言葉でもある。なぜなら、今も自分の血の中で転がり回り、もがいているのは、私たち人間の現実だからである。本当に人間の生涯は、実際に、血の中でもがくことで始まる。

 血は「いのち」を象徴している。そして、いのちは「生きる」ということと同義。だから「血の中でもがく」というのは、生きるということにもがいているということになる。ある意味では、生涯、私たちは何か似たような仕方で、もがき続けているのではないだろうか。赤ん坊が母親のおっぱいを求めてもがくように、それをはじめとして、私たちは永遠に求めても得られぬものを求めて、生涯もがき続けているのではないか。そして最後にはすべての人々が、自分の血の中に横たわって、最後のもがきを終えて、動かなくなる。

 けれども、そのような私たちに、神さまが声をかけてくださる、と聖書は語る。「生きよ」と。6節に「しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ」とある。

 そのような神さまがいらっしゃる。そしてその神さまは、ただ単に、私たちの傍を通り過ぎて行かれるのではなく、私たちに手を差し伸べて、私たちの身体を抱きしめ、私たちを引き起こされる。それでも生きよ、と、声をかけてくださるのである。

 キリスト教の信仰は、この神さまがついには、ご自身が人間として生きられたのだ、と語る。ヨハネ福音書316節に「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とある。神の独り子イエス、まさに神の分身である。その独り子を「世」に送ってくださった。そして何をなされたのか。具体的には、神の独り子イエスさまが、私たち人間の血みどろの苦しみの人生を同じように送られ、人間として最も苦しい死を、十字架の上でお受けになった。そして私たちと同じように、イエスさまはわたしたちの苦しみの中に、最後のもがきを終えて、静かに息を引き取ったのである。しかし父なる神は、そのイエス・キリストの傍らを通り、血の中に横たわっているその方を見て、「生きよ」と言われる。キリスト教の信仰の中心は、イエス・キリストが血みどろの死の中から、甦られた、もう一度生きられた、ということである。神さまはそれほどまでに、私たちが生きることを望んでおられる、愛しておられる。

 

 「生きよ」という言葉を、私たちは今日聞いた。生きることに意味があるとかないとか、それは最終的には、私たちにはわからない。まして私たちが決定できることでもない。ただ、私たちの生きることの意味は、私たちの中ではなく、神さまの中にあるのだと思う。神さまの「生きよ」という言葉の中にある。言い換えるならば、「生きよ」と言ってくださる神の愛の中に生きるとき、私たちの生きる意味が意味を持ってくるのではないだろうか。具体的に言うならば、「神を愛し、隣人を愛する」という、神の言葉に生きることではないだろうか。「生きよ」といわれる言葉に励まされていきましょう。