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十字架につけられ給いしままなるキリスト

2022年10月23日 主日礼拝宣教

宣教:井東 元(横浜戸塚バプテスト教会)

「十字架につけられ給いしままなるキリスト」 

コリントの信徒への手紙一 1章26節~2章5節

 コリントの教会を設立したパウロのもとに、クロエの家の者たちから、教会の中で派閥争いが生じているという知らせがパウロにもたらされた。「私はパウロに」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言い合い、自分の知恵を誇り、競っていたのである。「私はアポロにつく」と語るということは、直接的には「私はパウロにはつかない」ということだ。しかし、それ以上に「私はアポロから正しい教えを教わって、知恵を持っている。他の奴とは違うのだ。」と自分の知恵を誇る意味合いも読み取れる。そのような教会にパウロはまず十字架の神学を語った。それはこの世の知恵からすれば理解し難いことである。知恵に訴えるなら「十字架のキリスト」ではなく、「奇跡を行ったキリスト」「復活のキリスト」になりそうなものである。  

パウロは手紙の中で奇跡的なことを行ったことがあると書いている。そうであれば、パウロ自身の奇跡的な行為に頼ることもできただろう。それに対して十字架は死刑台である。そこには奇跡もなければ強さ、賢さ、救い、祝福はないように見える。しかもそれは「十字架につけられたことがあるキリスト」ではなく、「十字架につけられ給いしままなるキリスト」である。さらにパウロは、そのキリストを「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安であった」自分と重ね合わせている。ますます人間の知恵では理解不能である。

パウロ自身が書いている通り、ユダヤ人にとって十字架というのはつまずきでしかないし、ギリシャ人にとっては愚かさでしかない。パウロは第一コリントの15章で「復活のキリスト」について熱心に語っている。復活についても「復活し続けている」キリストが宣べ伝えられており、復活のキリストは私たちと共にいてくださっている。その方がよほど力ある神さま、イエスさまを宣べ伝えられそうなものである。

 

それではパウロはなぜ「十字架につけられ給いしままなるキリスト」を宣べ伝えていたのか。鍵となる言葉は「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」という言葉だ。神さまは人間の知恵に合致する事柄ではなく、あえて弱さ、愚かさを取り、それを通して強さ、賢さを示そうとされているのである。パウロの開拓伝道は困難の連続だっただろう。パウロは目の病気だった可能性があるが、本質的な困難はそういうことではなかっただろう。神の言葉を取り次ぐことの重要さ、厳しさの前にパウロが弱さを自覚することは多々あったはずだ。弱さの中でパウロは奇跡的な力に頼るのではなく、十字架のキリストを宣教した。コリントの信徒たちの中には豊かな者もいれば貧しい者もいただろう。豊かな者は知恵に頼り、自慢する生き方から、豊かではない者たちに寄り添い、ケアするように語りかけ、豊かではない者たちにはそんな人こそ神さまが召し出してくださり、「十字架につけられ給いしままなるキリスト」が共に苦しんでくださっている、だからあなただけが苦しむことはないのだと励ましていたのではないか。コリントの信徒たちの生き方を変え、力を与えるのは「十字架につけられ給いしままなるキリスト」なのである。パウロ自身、「十字架につけられ給いしままなるキリスト」が自分と共に苦しんでくださっている、そのことから日々不安から救われ、宣教へと向けて力を得ていたのではないか。神さまがあえて弱さを取ったことは、申命記77節「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」という言葉にあらわれているし、あえて愚かさを取ったこともコリントの信徒への手紙一121節の「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」という言葉に表れている。神さまの弱さ、愚かさは人間の知恵に優るのである。