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自分の十字架を負って歩む

2022年10月16日 主日礼拝宣教

「自分の十字架を負って歩む」 ヨブ記1712節、4216

 なぜ人はこの世で苦しみ、悩まなければならないのか。しかもなぜ、何の理由もなく悲惨なことが身に起こるのか。このような人生に、はたして意味などあるのか。この世界そのものが不条理にできていて、正義の神などいないのではないか。これらはいずれも、古代イスラエル人のみならず、人がいるところにはどこにもある問題ではないだろうか。

ヨブ記はまさにこの問題を正面から取り上げ、回答を求める物語である。ヨブ記はこの世の不条理に対して問い続け、そしてその回答を求める。不条理とは辞書的に言うと、「事柄の道筋が立たないこと」。卑近な例。コロナ禍において、非正規雇用者が理不尽に解雇されている。誰よりも誠実に全力で働いていた者が、理由なく経営不振の責任を問われ解雇される不条理がある。教育現場での陰湿ないじめも構図は同じ。ヨブ記は、神の前に正しい人であったヨブが、神から見放されたような状況に追い込まれ、さらに仲間たちから冷たくあしらわれ、傷つき、孤独にじっと耐えることしかないヨブの姿を伝える。1712節「息は絶え、人生の日は尽きる。わたしには墓があるばかり。人々はなお、わたしを嘲り、わたしの目は夜通し彼らの敵意を見ている」。このようなヨブの苦悩に対して、私たちはどのように受け取り、考えればいいのだろうか。

ヨブ記の最後には神が現れる。そしてようやくヨブに語りかける。しかし、結局神はヨブが受けた不条理の理由は語らない。にもかかわらずヨブは神の前に屈する。それがなぜなのか、私にはきちんと説明することができない。最後の最後、ヨブは神によって義とされ、祝福が戻るが、それもまた説明を超えている。

 けれども、ヨブ記を読むことで見えてくる興味深い事実がある。それはヨブのもとに現れた神は、不思議なことに、ヨブに答えるのではなく、むしろヨブに「答えてみよ」と問いかけるのである。神に問い続けたヨブが逆に神から問われるのである。そこに、ヨブ記の逆説的意味があるように思われる。

 私たち人間にできることは、神に問うのではなく、神に答えようとすること。問う者が問われる者になるということは、言い換えると、自らの現実を背負い引き受け、神に答える人間になることが求められるということである。

 これについては、オーストリアの精神科医で心理学者のヴィクトール・フランクルの言葉が手がかりになるだろう。彼はアウシュビッツ強制収容所で不条理を経験した。そのナチス強制収容所での体験を元に著した『夜と霧』は大変有名で、世界で広く読まれている。フランクルはこう言っている。「人生に対して人は問うべきではない。人生が問うているのであって、人生に答えるのである」。彼はこうした考え方を「コペルニクス的転回」と呼んだ。

不条理に苦しむ者にとって、唯一の道はそこにあるのではないだろうか。それがなぜ起こったのかを問うのではなく、ただそれを背負って生きていく。ここにヨブ記の意味があるように思われる。神に選ばれた者が果てしない苦しみを経験するヨブ記は、その後の十字架のキリストの苦難に重なる。キリストは十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた(マタイ福音書2746)。罪なきキリストが神から見捨てられるという、究極の不条理の出来事をキリストは十字架に現わされた。ヨブに代表される私たちの不条理の問いをキリストご自身もまた共有されたのである。その主が弟子たちに「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ1624)と言われる。しかし、そのキリストは復活の主でもある。復活の主が同時に不条理の苦しみを共にして下さって、答えのない「なぜ」を一緒に問う者として歩いて下さる。キリストが共に歩んでくださる。自分の十字架を背負って、復活の希望を目指して、それぞれ与えられた人生を真摯に歩んで行こう。