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おのが罪をあらわに

2022年10月9日 主日礼拝宣教

「おのが罪をあらわに」 詩編32篇1-11節

 詩編32編は、古今東西、多くの人たちに親しまれてきた詩編である。聖アウグスチヌスがこの世を去る時、部屋の壁にこの詩編が書いて掲げてあったという。また、宗教改革者のマルチン・ルターも、最愛の詩編の中にこの詩編を加えている。そのことからも、この二人がいかにおのが罪に悩み、またキリストによる罪の赦しを感謝していたかがわかる。

 1節2節では、神の愛を裏切った罪、神の正しさを曲げた罪、不潔な行為をした罪、こうした罪が赦されている者の幸福が歌われている。自分が犯した罪は、人にはわからなくても自分の心では苦しみ悩み不安を募らせるばかりではないだろうか。それは、何もかも見ておられる神に罪を犯しているからである。だから、神から罪を赦してもらわなければ、悩みと不安は一層募るばかりで、消えることはない。心身を病むようになる人もいる。先ほど挙げた聖アウグスチヌスやマルチン・ルターなどはそれに近いほど悩み苦しんだといわれる。もはや、罪を赦してもらうほかに救いはないのだ。神が罪を裁くのは、罪を悔い改めさせて、罪を赦すためなのである。しかも、神は罪を赦したことを覚えておられない。赦してやったのに、一向に恩を感じていないなどと言わない神なのである。このような徹底した「ゆるしの愛」の中に生きるほど「幸い」なことがあるだろうか。罪の赦しこそ幸福の源、である。

 3節4節では、詩編作者が自分の罪を知っていながら、神に悔い改めなかった暗い生活を思い起こして歌っている。「わたしは黙し続けて」、その結果「絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました」と言っている。神に背を向けるほど病は重くなり、激しい痛みのために「わたしの力は、夏の日照りにあって衰え果てました」と嘆き悲しんでいる。罪を悔い改めぬことこそ不幸の源だと言っているのである。

 5節6節7節では、作者がギリギリのところまで追いつめられて、罪を神に告白する。人間が本当に人間らしくなるのは、罪を告白するその時である。また、神が本当に神になるのは、罪を告白した人間の罪を赦すその時である。ここにしか、神と人間との出会いはない。だから、作者は、あの時あの所で神に犯した罪を「隠しませんでした」と告白しているのである。

 その時、何が起こるのだろうか。「そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました」と証ししている。そして、赦された者は6節「慈しみに生きる」者とされ、祈る者とされるのである。同時に裁きの神は赦しの神となり、さらに慈しみの神となる。そのような神は、7節、困難、試練の時には守り、ある時は隠れ家となってくださるのである。

 8節から11節では、作者が罪赦され救われた喜びを黙っておれない気持ちを歌っている。神は罪と死から救い出した者に、宣教の使命と責任を与える。8節「わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう」と言われる。特に若い人たちに、神の裁きと赦し、真に幸福に生きる道を語り継がなければならない。罪に脅迫されて、恐れおののいて生きるのをやめ、罪を悔い改め、赦されて生きよと勧める。そして11節「すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ」と結んでいる。

 

 新約聖書のガラテヤの信徒への手紙216節に、キリスト者は「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」とある。神が義人と認めているならば、人からどんなに非難されても意に介する必要はない。しかし、キリスト者もこの肉体を持っている限り、いろいろな誘惑を受けて苦闘し、時に罪の誘惑に陥る。罪は赦されているが、この神の大いなる恵みに報いることが乏しいのである。その意味ではなお罪人である。ルターは「つねに罪人つねに義人」だと言っている。またよく「罪赦された罪人」とも言われる。神はキリスト者にこそ真実の悔い改めを要求される。単に言葉だけで悔いることではない。日々に生活を改めるために、キリストのみ心に、自分の十字架を背負って服従することが求められる。むしろ主キリストの厳しい命令なのである。「自分のからだを打ち叩いて服従させる」戦いを求めておられる。神が罪の赦しの恵みを与えているのは、この戦場に遣わすためである。赦しの恵みに甘えて、この戦いを避けるならば、前よりも、もっと悪しき者となるであろう。罪を隠さず告白し、赦されて生きる。そして、その赦しに感謝して、喜んで主に仕える。そのような生き方へと私たちを励まして下さっている。この詩編32篇のみ言葉に励まされながら。