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十人の病人のその後

2022年10月2日 主日礼拝宣教

「十人の病人のその後」 ルカによる福音書17章11-19節

 聖書には、一見だれが読んでも、なんとわかりやすい教えなのだろう、と思える話が出てくる。この物語もその一つ。そのメッセージは、神が与えられた恵みに感謝しなくてはならないという、非常に分かりやすいものだ。しかし、物語を熟読すると、そこからは恩を忘れるなという警告以上のメッセージが伝わってくる。

 今日の聖書の話は、イエスがエルサレムに上られる途上、サマリヤとガリラヤの境を通られた時のこと。十人の重い皮膚病に冒された人がイエスに会い、遠く離れた所から声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と病の癒しを懇願したのだ。なぜ「遠く離れた所」なのかといえば、当時この病気に罹ると、人に近づくことが許されていなかったからだ。「汚れている。汚れている」と叫びながら歩かねばならなかったほどだ。生活の共同体の外に置かれた存在だった。なんと苛酷な定めだろうか。

 イエスは彼らの願いを聞き入れ、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。そして彼らは行く途中で癒されたというのである。「祭司に見せなさい」と言われたのは、律法の規定では癒されたことが祭司によって確認されたうえでなければ、社会復帰もできなかったからだ。

 さて、物語の中心点は、病気の癒しでなく、その結果どうなったかというところだといってよいだろう。十人とも癒されたにもかかわらず、感謝してイエスのもとに帰ってきたのはサマリア人一人だけだった。彼は「神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」というのだ。

 ところで、私たちは残りの九人のことを他人事のように考えることはできない。これが人間世界の現実であり、私たちの姿だからである。人はともに不幸であることによって結び合うところがある。「同病相憐れむ」という世界。そこでは心を共にし、喜び悲しみを共にする。だから、彼らも人々から隔離された寂しい村はずれであっても、皆同じ思いで「イエスさま」と叫ぶことが出来た。病を共にしている時、それが出来たのだ。そこには自然発生的な一種のコミュニティ(共同体)のようなものがあったと言ってよいだろう。

 ところが病気が癒された時、つまり問題が解決された時、「九人はどこにいるのか」と問われる存在になってしまったのだ。繋がりや絆はどうなったのだろうか。ある本にこの個所を解説した印象深い言葉がある。そこにはこう書いてある。「不幸の中での結び合いは、癒しと同時に解体した。……喪失した人生を急いで取り戻し始めた。生存競争のルートに乗り始めた。群像はもはやいない」と。聖書には彼らの行き先は書いてない。どこに行ったのだろうか。九人はそれぞれ自分の道に向かってどこかに行ったことは確かだろう。これは私たちの人間の交わりにおいても同じであって、問題や課題は人を結び合わせる要因ともなるが、解決すると解体してしまうことがあるのだ。

 では、「引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」というサマリヤ人はどうなのかといえば、それこそ群像が解体したあと取り残されたものの、恵みを与えてくれたイエスのところに赴くことによって真の交わりを得たのである。イエスは彼に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われ、新しい人生に送り出された。ここに絆や繋がりの本質を考える手がかりがある。真の絆は単に相憐れんで悩みや問題を共有することではなく、人間が本来目を向けるべきところで心を合わせることのできるものでなくてはならないということである。彼はイエスへの感謝を選択することによって新しい絆の世界に入ったのだ。古き群像を後にして。

 

 私たちが教会へ来るということはそういうことではないだろうか。