福音を現す生き方

説教題:       福音を現す生き方

聖書箇所:      テトスへの手紙2章9~10節

 

おはようございます。横浜戸塚バプテスト教会で協力牧師をしています内田泰亮です。よろしくお願いいたします。今日はこうして逗子第一バプテスト教会の皆さんと、神様のみわざ、そしてみことばについて共に分かち合う時を頂きました。感謝です。今日は私自身の「救いと今日までの神様の導きの証」とその上で聖書のみことばについて分かち合いをさせて頂こうと思います。

私が初めて教会に行ったのは、大学生の頃でした。その頃、後に私の母教会になるF教団のTキリスト教会で英会話教室をやっていて、そこに2~3年くらい通ったと思いますが、それからは、教会には行かなくなってしまいました。そして、時は流れて15年後。私はサラリーマンをしていて、仕事に行き詰まっていました。ちょっと説明するのが難しいんですが、私は元来、不器用でモノ覚えが悪い人なんです。覚えてもうろ覚えで、しかも忘れっぽい。そして、そういう性質って、人間の性格とか個性のようなもので訓練して治るものではないそうです。会社だと「仕事ができない」あるいは「使えない」そういうふうに言われる部類に入ります。そんな感じで、自分の仕事の能力の低さ、限界にぶつかっていました。仕事がうまくいかないと、信頼関係もどんどん壊れていって、人間関係も最悪状態になりましたね。もう、どうにもならない、出口のない迷路のような状態に陥ってしまい、仕事を辞めました。

でも再就職もしなかった。問題は会社や仕事ではなく自分自身だからです。どんな仕事に再就職しても「結局また同じことになるなぁ」って思ってました。しかもそれは治るものではない。こうして私は地上の現実世界で生きる意味、価値、目標、希望を全て失いました。会社を辞める時の人間関係が酷かったので、人間が嫌いになりました。精神的ストレスから突然、発作的に大声を出したりするようになっていました。そして、そんな事に負けて挫けている弱い自分自身を嫌いになりました。

そうなった時、私は自分の弱さを克服する「強さ」を求めるようになったんです。「強くなりたい」って思ったんです。その時、なぜか、ふと出てきたんです。イエス・キリストが。「イエス・キリストは多くの人救おうとしたのに、その人たちにイジメ殺された。それでもその人たちを愛していた。イエス・キリストは強い人間だ。どうしたら自分もああいうふうに強くなれるだろう」。聖書にそういうふうに書いてあるわけではありません。ただ当時の私は信仰を持っていたわけではなく、自分勝手にそう思い込んだんです。そして思いました。「昔行った英会話教室の教会、まだあるかな?」。こうして15年ぶりに私はTキリスト教会を訪れました。そこで教会のS先生と15年ぶりに再会しました。その時に言われたみことばが、ヨハ15:16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。…でした。でも、その時は特に何も響きませんでした。

それから2年、ずっと教会に通い続けました。自分の状態もだんだん落ち着いてきました。やっぱり癒されたんでしょうね。もうほとんど、突然、脈絡もなく大声を出したりするようなこともなくなりました。そして、S先生に声をかけられて信仰を持つことと洗礼を受けることを勧められました。でも初めは断ったんです。私は信仰を持ちたいんじゃなくて、強くなりたかっただけだから。そうしたら、その日、まさしく断ったその当日、久しぶりに、発作、大声が出ちゃいました。癒される前に戻っちゃいました。その時、あのみことば、ヨハ15:16を思い出しました。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。…ああ、これか。呼ばれたんだ。そう思いました。それで私は信仰告白をして洗礼を受けました。

それからは、積極的に教会の奉仕や学びに参加するようになったし、自然に交わりも増えていきました。多分、そういう日常の繰り返しの中で、時間をかけて、癒され、変えられていったんだろうと思います。そして再就職しようと思えるまでになりました。でも、就職前に教団の有志でやっていた東日本大震災のボランティア活動に参加して帰ってきてみると、そのボランティアで特に何かあったわけではないのに、今度は、被災地に行く直前までやる気になっていた再就職とか、人生の計画とか、そういうものに何か虚しさを感じるようになっていました。そして牧師として献身しようって決心したんです。

その時に、あんなに苦しかった自分の問題、仕事の行き詰まりや能力の低さ、人間嫌いの事が、いつのまにか、どうでもいいっていうか、自分の中で随分軽くなっていることに気付きました。私が抱えていた問題自体は何にも解決していないんです。ただ軽くなっていました。そのとき、初めて「ああ、自分は救われていたんだなぁ」って気付きました。

「C-BTE」っていう弟子訓練プログラムがあります。「C-BTE」とはChurch-Based Theological Education の略で日本語では「教会を主体とした神学教育」となります。そこに出てくるキーワードで「基本原則」っていう言葉があります。これは「あれしちゃダメ。これしなさい」っていう規則ではなくて、あくまで原則。つまり、モノの見方、考え方、価値観っていう意味ですね。基本原則って二つしかないんです。イエス・キリストの基本原則とこの世の基本原則です。つまり、イエス・キリストのモノの見方、考え方、価値観と、この世のモノの見方、考え方、価値観です。

私は地上の現実世界で生きること、人生に絶望して仕事をしない状態が長かったです。人間が嫌い、自分も嫌い、そういう状態に陥って、人生の再スタートを切れなかった。それは、自分がこの世の基本原則に捕らわれていたから、この世のモノの見方、考え方、価値観に縛られていたからだったんです。その、私が縛られていたこの世の基本原則、自我とか、アイデンティティーとか、自分の夢とか、趣味とか、そういうものが気付かないうちにとれていた。なくなったわけではなくて、自分の中の優先順位が大きく落ちていました。きっと聖霊の働きによるものだと思います。こうして私は自分が捕われていた絶望から解放されました。そして自分自身の中に自由と確信と余裕ができて、神様の計画に直接奉仕をする人生の再出発、献身を決心したのです。

そして私はTキリスト教会が属しているF教団の神学校に入学しました。在学中、お世話になったS先生が癌で天に召され、卒業後はその後継牧師として母教会のTキリスト教会へ招聘されました。その後、私はTキリスト教会で4年と少し、牧師として奉仕させていただきました。しかし、その教会の筆頭役員の方が、表ではなくて裏から、教会を自分の思うように動かそうとする人で、そして、その為に、牧師を自分の言いなりになるように、いわば「飼い犬」のようにしようとしていた人だったんです。長く教会の役員をしている人で、その人につながっている人も役員になっていました。私が教会で牧師として奉仕してきた4年間はずっとこのような状態でした。私自身も4年間、苦しみつつ祈りつづけてきました。

その祈りの中で、2年前2019年の12月に神様から「もう我慢しなくてよい」ということが示されました。そして次の年の7月に教会の役員会に「辞任願」を提出し、その中で辞任理由として、4年間のそういう状態を全てを明らかにしました。しかし、役員会は私の辞任は認めても、辞任理由については全否定で、私はTキリスト教会から除名の処分を頂きました。

それから私は所属する教会のないただの一人のクリスチャンとして、横浜戸塚バプテスト教会で礼拝を守らせてもらうようになりました。そして2021年には、あらためて横浜戸塚バプテスト教会に籍を頂き、2022年に協力牧師として用いていただけるようになりました。

前の教会で牧師を辞任したこと、除名になったことは、自分が時間をかけて祈り、示され、なした結果なので後悔はしていません。ですが、もし今、再び同じ様な事が起こったらどうするか、また同じことをするのかについて、あらためて考えてみるとこう思えます。イエス様なら、─具体的に「イエス様ならこうしていた」とは言えないが─ こういうやりかたはしないだろうな。そしてもっと違う結果になっていただろうなって。そして、こうも考えます。自分にはイエス様と同じことはできないだろう。ただ自分が、もっと霊的に成熟していれば、もう少しイエス様に近づけたかもしれない。そうしたら、─具体的に「こうしていた」とは言えないが─、もっと別のやり方ができて、別の結果になっていたかもしれない。いや、結局、考えても、具体的に「どうする」っていうのは出てきそうもありません。ただ、自分の霊的な成熟の為にも、これからもしっかりとイエス様の導きに従って、一歩一歩、地にしっかり足を付けて歩いていく、それしかないし、それが最善なんだろうと思います。そして、これからもそうしていこうと思います。

 

ここで少し、私の証に関わるみことばについて、一緒に見て聞きたいと思います。もう一度聖書箇所をお読みいたします。

奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。/テト2:910

このテトスへの手紙が書かれたのはAD64年頃、つまりイエスさまが十字架にかかってから約30年が過ぎたくらいですね。著者はパウロ、宛先はクレテ島にいるテトス。テトスはパウロの弟子でギリシャ人、いわゆるユダヤ人ではない、異邦人です。パウロとテトスは一緒にクレテ島に伝道して教会を作りました。そしてパウロはクレテ島をテトスに任せて、またどこかへ伝道に行きました。

クレテ島は、ギリシャとトルコの間、そしてエーゲ海と地中海の間にある島です。大きさは日本の四国より少し小さいくらい。山が多くて平野が少ない島なんですが、土地は肥えていて人はたくさん住んでいて、古くから栄えていた島国でした。ヨーロッパの最初の文明の一つミノア文明が起こった地域でもあり、ギリシャ神話ではミノタウロスっていう怪物の伝説で有名な島でもあります。ところが、そのクレタ島の人々は非常に悪評が高い。悪徳で有名でした。怠惰、大飯食らい、嘘つき。しかも、教会には偽教師、聖書の教えではなくて自分の教えで家庭を破壊する者がいて、被害が多発していました。そんなテトスへ、励ましと助言を送ったのがこの「テトスへの手紙」です。

聖書にはいくつか「家族の教科書」って言われている箇所があります。<エペ5:226:9><コロ3:184:1>など、夫や妻、子供たちの家族における生き方、家族のあり方、また神の家族である教会における生き方、教会のあり方が証しされています。<テト2:13:2>もその一つで、今日の聖書箇所2:910はその中で、奴隷について語られている部分です。

奴隷にもいろんな状況があって、創世記のヨセフのように重要な仕事を託される執事の仕事もありましたし、出エジプト記のイスラエル人のように過酷な労働で搾取される奴隷もいました。当時、奴隷がいる家庭は結構普通にありました。教会に来れる奴隷もいました。聖書では、「奴隷も家族の一員ですよ。」「家族の一員として、こうありなさい。」って教えているんですね。

ここで、奴隷に言われている事が、当時の奴隷に限らず、全てのクリスチャンに言える、大切なことだよって言いたいんです。それが、この言葉。「神の教えを、あらゆる点で輝かす」 そういうありかたです。

別の言い方をすると、福音を現す生き方、福音を証しする生き方です。

あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、盗んだりせず、常に忠実で善良であること」 が、「神の教えを、あらゆる点で輝かす」と聖書にはありますが、それって、つまりはどういうことか。ああしろ、こうしろって書いてありますが、「行い」のことを言っているのではありません。あれをすれば神の教えを輝かす、こうすれば福音を現す、ということじゃないんです。「行い」そのものではなく、そういう「行い」が自然に出てくるような、あり方、生き方のことを言っているんです。それって、つまりはどういうことか。

先ほどお話した私の証の中に、「基本原則」という言葉が出てきました。「あれしちゃダメ。これしなさい」っていう規則ではなくて、あくまで原則。つまり、モノの見方、考え方、価値観っていう意味。福音を証しする生き方というのは、イエス・キリストの基本原則、イエス・キリストのモノの見方、考え方、価値観で生きるということなんです。それが、人々に神の教えを輝かします。福音を現します。福音を証します。

なぜなら、そこには、愛がありました。イエス様は5つのパンと2匹の魚を5000人以上で分け合いました。当時の教会の人達も、貧しいからといって、自分の物を守ろうとはしなかったでしょう。貧しいからこそ、手を差し伸べ合って分け合っていたでしょう。

そして、そこには希望がありました。自分達を縛っていた、自分さえよければっていう「罪」から解放されて自由になった、自分が救われるということは、自分達が救われるということ、家族が救われる、神の家族が救われる、ということがわかった。だから分け合える。神の国が造られていく。そしてそれはイエス様が再びやってきて完成する。そういう確かな希望があるでしょう。そして、そういう生き方をする人たちの群れには、「優しさ」がありますよね。そしてそこには「笑顔」もあるよね。そしてそこに何かの力、何かの光があります。周りの人はそれ感じるんです。それが、福音を表わすんです。福音を証するんです。

私達はイエス様から福音を宣べ伝えることを命じられています。

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。/マタ28:1920

クリスチャン、「私」は家族や教会など「私たち」の中の誰かを通して、「私たち」の中の一人にしてもらった、「私たち」の中の一人として、イエス・キリストの福音によって救われた者です。そしてそれは別の見方をすると、誰かほかのイエスキリストの弟子から福音を伝えられて、新しくイエス・キリストの弟子になったということでもあります。

「私たち」が生きる意味、イエス・キリストの弟子がすべきことは、イエス・キリストの福音によって救われている「私たち」自身を増やすことであり、全ての人が「私たち」の中に含まれるようにすること。それが伝道であり宣教です。イエス・キリストの弟子は、イエス・キリストの基本原則、イエス・キリストのモノの見方、考え方、価値観で生きます。それは福音を証しする生き方です。つまり「救われる」という事が、「救われた生き方をする」ということ自体が福音を証し宣教する行いそのものなんです。言葉によって福音を宣べ伝えることはその一部なんです。自分が救われることと、宣教することは同じ一つの事なのだと思います。

私自身の証の中で、東日本大震災のボランティア活動に参加して、それがきっかけになって献身することを決心したとお話しました。震災では多くの宗教関係の支援団体がボランティアに参加しました。そしてその多くは、支援をきっかけに伝道するという目的も持っていました。それって支援される側にも感じられるんですよね。そういう生き方、あり方も伝わるんです。そしてそれって、純粋な好意や善意による支援ではない。下心がある、ある意味「取引」のような支援である。そう見えるんです。だから、支援には感謝するけれど、信用してはいない。むしろ警戒している…という感じになりますね。そんな宗教関係の支援団体も、震災から時が経つにつれて多くが支援活動から退いていきました。その中で最後まで支援活動を継続したのがイエス・キリストの教会だったんです。彼らは何をしたかっていうと、自分が伝道するのはやめよう。あくまで現地の教会が地域を支援し支えるお手伝いをしよう、という方針で支援活動をしていったんです。その方針の根底にあったのが「福音を証しする生き方」でした。震災の悲惨さに、「神なんているのか!?」という人々の心の叫びに応えたのは、「福音を証しする生き方」に励むクリスチャンたちの存在だったのです。彼らは生き方によって福音を証しすることを、「宣教」ではなく「宣証」と名付けました。私が参加したボランティアって、それだったんです。

コロナ禍、自然災害、そして世界の紛争や、民族の弾圧、日本経済の低迷や格差の拡大、私たちは祈ることがたくさんあります。明るく元気に生きづらいご時世と多くの人が感じています。ですが、私たちがイエス・キリストの基本原則で、イエス・キリストに救われた人の生き方をするなら、その生き方を通してイエス・キリストの福音が証しされます。私たちの周りから少しずつ、愛と希望と優しさと笑顔の生き方が広まっていきます。多くの人がイエス・キリストの福音によって救われて、そしてイエス・キリストの基本原則で生きるように変えられてくれればいいなぁと思います。短くお祈りして閉じさせていただきます。

天の父なる神様、救い主イエス様、聖霊様 お名前を褒め称えます。

今日は私に逗子第一バプテスト教会で証をする機会と、またみことばを通してみこころを示してくださった事を感謝します。明るく元気に生きづらいこの時代、一人一人がご自身の問題や祈りの課題を抱えています。私たちが、私たちを苦しめている問題を、イエス・キリストのモノの見方、考え方、価値観で見て、イエス・キリストの基本原則で生きることで、そこから解放されて、その上で多くの人々の救いを祈れるように、そして私たちの教会をそのような群れに変えてくださいますようにお願いいたします。

また、戸塚と逗子、お互いにとても近い位置にあると思います。これからもお互いに助け合い、励まし合い、そして共に祈り合う、主の前に良いきずながますます強められますようにお願いいたします。今日のこのひと時を感謝します。

救い主イエス・キリストのお名前をもってお祈りいたします。 アーメン