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いのちの主を畏れよ

2022年9月18日 主日礼拝宣教

「いのちの主を畏れよ」 第一コリント3章5-9節

 アポロという人物は、アレクサンドリア出身のユダヤ人でキリスト者となり、コリントにも伝道した人。彼は大変熱心で雄弁家だった(使徒1824以下参照)。だからパウロとともに人々を引きつけ、結果的にコリントの教会にパウロ派、アポロ派に分かれる騒ぎまで生じさせてしまった(34)。このような教会だけでなく世間一般にありがちな問題をパウロがどのように収拾したかを見ることは、私たちが同じ問題を抱える時、益となるのではないか。

パウロはコリント教会内の分裂騒ぎに根本的な態度を示す。その一派にパウロ派があったのだから、普通ならうれしいだろうが、彼はそれを否定する。彼はまず「あなたがたはただの人にすぎないではありませんか」(34)と言う。「ただの人」つまり「肉の人=ただの人間」。「あなたがたはそれでもクリスチャンか」と問うていることになる。分裂が起こっている時は、ただの人間になっているのだから、キリスト者としてのアイデンティティーはどこに行ったのか、キリスト者としてのアイデンティティーを取り戻しなさいと戒めているのである。

さらに5節で「アポロとは何者か」「パウロとは何者か」と言い、どれだけの値打ちがあるのかと問うている。アポロにしてもパウロにしても、彼ら自身も自分の力で伝道したのではなく、ただ神の恵みによるのだ、ということを指摘している。しかも、主から与えられた分だけ働かせていただいたに過ぎないのだと説く。しかし、なかなかそのことに私たちは気づかない。鈍い、鈍感なのだ。肉の欲にとらわれているからだ。この神の恵みは、神のために懸命に励み、神の前に自分を低くしていくことによってのみ気づかされていく。それは、6節の「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」という信仰の告白へと私たちを導く。

 さらにパウロは7節で「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」と言って、キリストを介して神を中心に置き、神の前では、自分も含め人間、および人間に所属するもの一切が相対化されるべきことを述べている。要するに、自分を絶対化しないということ。判断の決め手を示している。それによって、逆に自分のしていることを冷静に見つめることができる。周りも冷静に客観的に見ることができる。

 そうしてはじめて、キリストの前で共に生きる、共に成長していくことの本質が見えてくる。共にかけがいのない神から与えられた「いのち」を生きていることに気づかされていく。その私たちを成長させてくださるのは「神」。私たちは互いに水をやったり、手入れをするだけなのだ。

 

 私たちキリスト者が立つべき立ち位置というものは、神が私たちにかけがいのない「いのち」を与えてくださり、そして「育ててくださる」「成長させてくださる」という信仰に立つということではないか。そして共に生きていこう、共に成長していこう、という姿勢で関係性を大事にしていくということではないか。言い換えるならば、いのちの主を畏れ、かけがいのないそれぞれに与えられた「いのち」を感謝して大切にする、ということではないか。そして、人それぞれには神から与えられた人生があり、生活があるのだから、その歩みを尊重しつつ、成長させてくださる神に信頼し、期待して共に歩んでいくことではないか。主と共に、隣人と共に。