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神に向かう沈黙

2022年9月11日 主日礼拝宣教

「神に向かう沈黙」詩篇62篇2-13節 

 詩篇62篇は「個人の信頼の歌」として類別される。「神への信頼」がこの詩の主題である。この「信頼」というものがどういうものであるかこの詩編から教えられたい。

 この詩人は「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう」と言っている。そして、「神に私の救いはある」、6節では「神にのみ、私は希望をおいている」と言って、希望と救いの確信を告白している。そして、それゆえに「神こそ、私の岩、私の救い、砦の塔」であり、「私は決して動揺しない」と神を讃美しているのだ。なぜこのようにこの詩人は、神の救いと希望を確信し、神を讃美することが出来たのか。それは神への沈黙の中にその原因を見ることが出来るのではないか。

「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。(口語訳)わが魂はもだして、ただ神を待つ」。この沈黙には二つの内容が考えられる。

 一つ目、この沈黙は、神への信頼に満ちている。神が語って下さるのを待っている。どんなに動揺しても、自分が「いたく動かされる」ことはないと知るところから生まれる沈黙である。そして「御前に心を注ぎ出せ」(9)とあるように、この沈黙は心を注ぎ出す沈黙である。生活の中で、自分の心の悩み、わだかまり、苦しみを神の前にさらけ出していくことである。しかし、どんなに行き詰まった絶体絶命の状態であっても、それを神の前に注ぎ出すということは、本当に神を信頼しなければできないことである。そして、待つことに集中する。この沈黙は神に向かって心を注いでいる。心を開いて祈っているといってもよい。心のカギを神のみ腕にゆだねるような心であり、祈りである。「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知なのである」(マタイ68)との主の約束を信じきっているところから生まれる沈黙であり、祈りである。

このように「沈黙」ということに思いをめぐらしていると、どうしてもイエス様の沈黙されたところを思い出さずにはおれない。十字架にかかられる直前のところである。一切の業を終えられて十字架の死を待つのみであったイエス様は、ローマ総督ピラトの裁判において、イエス様が「それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。」というところである(マタイ2714)。一切を神に委ねることを決意されたイエス様にはピラトの法廷においてただ沈黙あるのみであった。この沈黙の中に、イエス様の父なる神への絶対的な信頼が見られる。その信頼の中身は「神の力」であり「慈しみ」である。さらに「ひとりひとりに、その業に従って、あなたは人間に報いをお与えになる」という神の公平な裁き、取り扱いに信頼していることがうかがえる。だから沈黙されていたのではないか。いや、沈黙することができたのではないか。

沈黙のもう一つの内容は、神と出会う沈黙である。私たちは祈りの言葉が中断し、真実の意味で黙ってしまうことがある。言葉にならない、祈りにもならない、ぎりぎりのところでの沈黙である。それは、私たちの側から言えば、むなしくなること、空っぽになることである。しかし実は、それは空しいどころか、充実した沈黙である。なぜなら、このところで私たちは、自分の罪を、自分がいかなるものであるかを深く知り、そしてそこでこそ、私たちは神と出会い、救いを知るからである。

 森有正(1911-1976年、哲学者、フランス文学、思想家)が「決してある神学的な教条や教典やまた思想体系の中で人間は神様に会うことは出来ない。人間にはいかなる場合でも隠そうとするあるいは隠された一隅はあります。……人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことは出来ない」と書いている。「そこで」の沈黙。それは人間の言葉が満たすのではなく、神の言葉に満たされていく沈黙となっていく。そしてそれは、さらに神にすべてを明け渡していく沈黙となっていく。

 

 「わが魂は黙して、ただ神を待つ。わが救いは神から来る(口語訳)」。私たちの祈りの心に深く刻みつけるべき喜びの言葉である。