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手を差し伸べよ

2022年9月4日主日礼拝宣教

「手を差し伸べよ」マルコによる福音書9章33-37節

 93032節で、主イエスが弟子たちに何のためにエルサレムに向かおうとしているのかが改めて話されている。しかし、弟子たちはいまだにその意味を理解していない。理解していないというより、理解できなかった。彼らは、主イエスが地上の王国をつくり、自分たちがその支配階級になることを願っていたらしいことがその後に書かれている。主イエスが十字架に向かおうとしているときに、誰が一番偉いかと論じていたのだ。そこに弟子たちが考えている権威と栄光を持つ人の子イエスと主イエスご自身が語るこれからの受難と復活の出来事との間に大きなずれがある。

 人間にはそれぞれの役割の違いがある。賜物の違いもある。しかし、違いによって人間に価値の上で序列をつけることは大きな罪である。主イエスはその罪を見逃すことは出来なかった。主イエスは弟子たちに「何を論じていたのか」と尋ねられた。弟子たちが黙っているので、主イエスは「だれでも一番先になろうと思うならば、一番後になり、みんなに仕える者とならねばならない」と教えられた。主イエスは、弟子たちの「偉くなりたい、一番先になりたい」という願いを否定せずに受け止めた上で、その意味をまったく新しく作り変えられたのだ。「一番先になりたい」、いいでしょう、ならば、「一番後になり、みんなに仕えなさい」と言われたのだ。

「すべての人の後に」という最後の者とは、どんな人たちだろうか。それは集団の中で最も軽んじられ、ほとんど疎外された立場に置かれた人たちである。しかし、そのような立場から「仕える」という積極的な意志を表すのである。主イエスの言われるこのような生き方は、具体的にどのような活動、生き方を言うのだろうか。

 この当時のユダヤ社会では、幼な子と女性は一人前の社会の成員とはみなされていなかった。今でも「女、子どもが」という言い方で差別的な言い方をする人がいる。当時、特に幼な子は人間としては価値の小さいものとみなされていた。理由は生産性がないからである。しかし、主イエスは、その「幼な子を受け入れる」ことを弟子たちに求められた。幼な子を受け入れるということは、自分にとって得にならないような相手をも神に創られた一人の人間として大切にすることである。さらに、主イエスは幼な子と自分とを同一視しておられる。主イエスの弟子として生きることは、この世的な栄誉や成功を第一に求めることとはまったく異なるということだ。「幼な子に仕えたところで目に見える報いは期待できないし、人々からも注目されないかもしれない。しかし、幼な子を大事にすることは、私を大事にすることなのだ。それが私の弟子としての生き方だ」と主イエスは言っておられるのだ。

 私たちの世界の一つの問題は、人間を有用性や功績によって測る価値観があまりにも強く支配していることである。人がそれぞれ持っている能力をふさわしく発揮することは大切なことである。しかし、そうした有用性、あるいは生産性が人間の価値そのものであるかのごとくみなされてしまうのは誤りである。

自民党の杉田衆議員2018年、《LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。》と月刊誌「新潮45」に寄稿して批判を浴びた。

有用性、生産性とは付随的な価値である。その人がその人であるという人格の存在価値は、有用性などにかかわりなく尊いものであることをもっと真剣にとらえることが求められている。なぜなら、神は一人ひとりの存在をまず愛してくださっているからだ。何かができ、何かを成し遂げたから愛されるのではない。

 主イエスは、いと小さき私たちをすでに価値ある尊いものとして受け入れてくださっている。その意味ではすでに偉いものとされているのであるから、偉くなろうとする必要はない。だから、安心して幼な子を受け入れ仕えることが出来る。自分を評価してくれるか否か、得になるか否かにかかわらず、主イエスが大切にしておられる幼な子に代表される「いと小さき者」を私たちも大切にする。そして、その人に仕えても表面的には何の見返りもないかのように思える相手に対しても、その存在の価値を大切に思うがゆえに心をこめて仕えていくことこそが、十字架の主イエスに従う生き方ではないだろうか。

 

 「受け入れる」は元来、手を差し伸べる受容の姿を表すという。こちらから手を差し伸べる、という積極的な働きかけである。積極的にこちらから仕えていく姿勢で主に仕え、隣人に仕えるは同じことである。主に仕え、隣人に仕えるは、主を愛し、隣人を愛することと同じ。その愛は無条件で一方的で無限で永遠で、何ものにも代えがたい尊いもの。その愛を私たちは主イエスを通して与えられている。その愛を精一杯、分かち合って、主イエスの愛に応えていこう。